名前の無いノート

研究者見習いが名前の書かれてないノートに雑多なことを書き綴ります。

バーチャル研究者が綴る『ホモ・デウス(下巻)』レビュー(後編) ~「あなた」が紡ぐ物語

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「お前は誰だ1」……こんな厳しい言い方ではありませんが、僕はあなたに全く同じ問いを呼びかけます。

はじめに

 こんばんは、なもなき(@Nam0naki_)です。

 今年も残りあとわずか、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

nam0naki.hatenablog.com

 前回の記事で、僕はユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を読み、その本が紡ぎ出す「人間至上主義の終わり」をまとめました。

 実のところ、全編の記事はホモ・デウスの「要約」に過ぎず、そこには僕自身の考えや意見はほとんど入っていません。

 今回は、レビューの後編として、僕の言葉でこれから我々がどうしていけばいいと考えているのかを、紐解いていければと思います。

 ただ、重要参考文献として、前回も挙げた「ホモ・デウス(下)2」及びその続編にあたる「21 Lessons3」を挙げさせて戴きます。これから僕が語る意見については、こちらの記述を大いに参考にさせて戴きました。しかし、その全てを読んだわけではないので、僕の解釈に誤りがある可能性があること、及びこの記事は僕の独自の意見をもって行うことをご了承ください。もし、時間がありましたら本を手に取って戴き、自分自身の考えを述べていただけると幸いです。

 それでは、どうかお付き合いいただければ幸いです。

あなたは「無知」である

 前回、人間の認知がいかに不完全なものであるかを述べさせていただきました。人はありとあらゆる物事に対して、「事実」をよく知りません。しかし、今日においては、たとえよく知らなかったとしても、その恩恵だけは享受することができます。例えば、家の蛇口をひねれば生存に必要不可欠な水がでてきますが、あなたはどのような仕組みで水が出てきているのか、ご存知でしょうか?水道料金を払ってるから?そういう意味ではありません。水道料金を払うことによって、どう言った契約が交わされ、どういう情報的もしくは物理的処理が行われ、水が出るようになるのか、ということです。

 ……すいません、意地悪なことを言いました。実のところ、僕自身も蛇口をひねれば何故水が出てくるのか、本当のところではよくわかっていません。ここで言いたいことは、私たちは日常的に身近に触れているものであっても、それがどういう事実によって生まれているものなのか、よくわかっていないということです。これは全てのことについて言えます。何故TVをつけたら放送が観れるのか?何故バーコードを読み込ませることで支払いができるようになったのか?僕はよくわかっていません。僕の専門であるVRの話をするならば、何故HMDを被れば遠くにいる私たちが近くにいるように感じられるのか?何故顔を近づけるとありもしない息遣いが感じられるのか?何故バーチャルな火から暖かさを感じることができるのか?もちろんバーチャル研究者である僕はそれについてある程度の知見を持ってはいますが、本当のところ、たとえ「推測」をすることはできても、人間の心を直接的に観測する手法を解明していない以上、私たちですら「事実」として、それに明確な回答を行うことはできないのです。

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我々はこの世界について、あまりに多くのことを知らない。(図は「無知の知」を提唱したといわれるソクラテス)

 しかし、本当に何も知らない、わからないのであれば、私達は何の選択もすることはできません。本日は大晦日ですが、大晦日の晩に何を食べるべきかすら、我々にはわからないはずです。しかし、実際には私達は何を食べるべきか、おぼろげながら共通の認識を持っています。それは一体、「何」なのでしょうか?

「物語」が紡ぐ意思

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お蕎麦、冬にぴったりな食べ物ですね。ところで、何故我々は大晦日におそばを食べるのでしょうか?

 さて、大晦日の晩に食べるべき食べ物、思い浮かべていただけましたでしょうか。「そば」以外の回答があるという方は是非コメントにお寄せいただけると幸いです。一旦は「大晦日の晩には蕎麦を食べるべき」という共通認識があるという前提で話を進めていきます。

 人は何かを知らないと、何事を為すこともできません。それを行う理由がないからです。しかし、現代において「事実」はあまりにも複雑怪奇となり、もはや人間にとっては理解の追いつかない代物となりました。いや、もしかしたら人類の生まれから現代において、一度たりとも「事実」に基づいて何かを為すことが出来たことは一度もないのかもしれません。もし人が「事実」を正しく制御できたのだとしたら、人間がここ数百年前まで苦しんできた飢餓や疫病や戦争は起こらなかったのかもしれないのですから。

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もし天然痘の感染、発症、流行の仕組みをもっと早く「事実」として認識できていれば、数百万の命が助かったかもしれない4

 では、「事実」ではないとすると、多くの場合人々は何に基づいて意思決定を行なっているのでしょうか?その答えが「お蕎麦」にあります。Wikipedia調べ5によると、年越し蕎麦はおよそ江戸時代中期ごろに始まった食文化のようです。その理由は「細く長いから長寿を願える」や「金を集める縁起物である」、「切れやすいから一年間の苦労や借金を切り捨てられる」、「縁が長く続くように」等いろいろな説があるようです。しかし、どれをとったとしても、そこには一つとして「事実」はありません。そも由来同士をとっても、「苦労を切りやすい」のに「縁が長く続く」ことを願っていたり、矛盾してしまっています。

 しかし、実際のところ、多くの日本人が大晦日の夜に何かしらの理由をつけてお蕎麦を食べています。それは、我々が大晦日にお蕎麦を食べることを正しいと「信じている」からに他なりません。そこには、家族であったり、友人であったり、インターネットの誰かだったりが伝えた「メッセージ」の影響なのではないでしょうか。私達はそれを信じ、その「物語」を享受する形で、お蕎麦を口にするのです。そこに「事実」は一切関係はありません。そしてそれこそが、人間至上主義の崩壊の先に残った唯一の「自由」なのではないかと思います。

「物語る」自由

 人々がどのような物語を信じるかについては、一定の権利が残されています。例えAIが人よりも多くの事実を知り、あなた自身のことについてさえあなたより多くのことを知ることになろうとも、あなたにはそれを超えた物語の上に生きる自由があります。何故僕が、そしてハラリが物語についてそこまで重要視をするのかというと、人は物語なくしては生きる理由を見失ってしまうからです。そして、物語が生み出す意思は大きなパワーを生みます。それは人を行動に駆り立て、手を取り合い、場合によっては闘争にまで人々を駆り立てます。物語について、ハラリはこのように述べています。

「人生の意味について問うときはほぼ例外なく 、人は物語を語ってもらうことを期待している 。ホモ ・サピエンスは物を語る動物であり 、数やグラフではなく物語で考えるし 、この世界そのものも 、ヒ ーロ ーと悪漢 、争いと和解 、クライマックスとハッピ ーエンドが揃った物語のように展開すると信じている 。」—『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 http://a.co/bheSFnH

 もちろん、これは劇薬にもなりえます。僕はハラリの書いた文章について、歴史に関する部分はそこまで多く読んでいないので多くを言及することは避けますが、「物語」を信じた人々によって多数の死者が出たこと、場合によっては人間同士が血肉の争いを行った事実は歴史上に多く記されています。しかし、それ以上に多くの人々に生きる意味を与えてきましたし、明日を生きるための活力を与えてきました。また、いくら物語を信じようとも、「事実」は容赦なく我々の身に降りかかってきます。自然災害が発生するという「事実」を、現状の我々は止めるすべを持ちません。また、これには異論のある方がいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも我々が生きてる間については、「死」という事実から逃れるすべを我々は持ちえないでしょう。それでも、私たちは「物語」を求めて、明日を生きていきます。

 よしわかった、じゃあ今まで通り物語を信じて生きて行っていいんだ!と思った人、ちょっと待ってください。先ほども言った通り、「物語」は「事実」の重みを和らげてはくれるかもしれませんが、完全に吸収してくれるわけではありません。また、「物語」と矛盾する「事実」が生まれたとき、その「物語」は容易に破綻します。なので、物語を信じる前にちょっと足を止めて考えてもらいたいのです。その「物語」、いったい「誰の」ものなのでしょうか?

物語を「奪う」者

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あなたが生きていく物語、それって本当に「自分のもの」になっていますか?

 先ほどの大晦日のお蕎麦の件を思い出してください。我々は何気なく大晦日に蕎麦を食べる「物語」の上を歩いていますが、先ほど申し上げた通りそれは自分でない誰かが作ったメッセージなのではないかと思います。そして、我々はそれを何気なく取り入れて、蕎麦を食べる意思を持っている。果たして、これは「誰の」意思なのでしょうか?

 あくまで「怪文書」として、大胆な予言をします。「人類至上主義」が終わろうとする日、企業、あるいは国家、もしくは個人、もしかしたらAIまでも……とにかく自分でない全ての「他者」は、あなたの「物語」を奪いにやってくるでしょう。それは自覚的に行われる場合もあるかもしれませんし、無自覚に行われる場合もあるかもしれません。物語を奪うということは、貴方が自分自身の力で物語を語る権利を剥奪し、代わりに他者が作った物語をあなたに刷り込むことです。「物語」の上であなたが生きざるを得ない以上、それは、あなたの「意思」を奪うことに等しいといえるかもしれません。そして、- もしそんなことが本当にあればですが - 人々の「物語」を掌握できたものがいたとしたら、その人はこの世界の「覇者」になれると考えています。

 もしかしたら、「それのどこが悪いの?」と考える方もいらっしゃるかもしれません。「他人の思うがままに生きる人生、それでいいじゃない」と。たしかにそれは一理あるといえるかもしれません。なんといっても、自分で考える必要がないのはとても楽です。何故明日を生きるのか、自分の人生はどこに向かっていくのか、それを毎日決めてくれる人がいれば、「自分が何をするべきか」と毎日頭を悩ませる必要もありません。しかし、一つ覚えておいてほしいのは、そのような「他者」は貴方の人生を決定づける一方で、あなたの人生には何も責任を持ってくれない、ということです。誰かが「これは神に祈りを捧げる重要な儀式だ」と言われ、嬉々として石を積み上げたとしても、最終的には「他者」のための家の土台になってしまうかもしれません。ようやく石を積み上げ終わったとき、そして、「事実」を知らされたとき、あなたは「話が違う」というでしょう。しかし、他者は冷徹にこう言い放つかもしれません。「そんなこと言ったっけ?」と。

あなたが「信じられる」もの

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何も信じられないこの世の中、貴方は何を信じますか?

 自分ではない全ての他者が作った物語は、すべて「あなたのもの」ではありません。それは、何かしらの目的をもって他者が自分、もしくは不特定多数のものに向けて作り出したものです。それを取り込むことは、「自分の意志を他人に明け渡す」というそれなりの「リスク」を伴います。今日の晩御飯くらいは他者が作ったプロパガンダに身を委ねてもいいかもしれませんが、日々の人生を生きる理由を他者の物語に委ねるならば、あなたは「自由」をその身から手放すことになります。そして、「事実」によって破綻した物語は、もうあなたの身を守ってはくれません。その日がきたときに、あなたは明日から何をして生きていけばよいのでしょうか?

 そんな中、僕が信じていいのでは、と思うことは大きく分けて二つあります。一つは、ありのままの「事実」です。例えば、ニュートン力学は、少なくとも地球上においては大体の物質の流れを正しく導き出すことができます。これには、他者の「意思」や「思想」は一切関係ありません。少なくともあなたが地球上に生きているうちは、信じていい事柄だといえるでしょう。また、過去に起きたことも「事実」として信じていいかもしれません。第二次世界大戦が起こったという「事実」は、それを「隠す」ことができたとしてもそれをゆがめたり、そっくりそのままなかったことにすることはできません。原爆記念館に残された記録は、日本に原爆が落ちたという「事実」を、限りなく正確に保管しています。

 気を付けてほしいのは、「事実」を語ること自体に、他者の物語を差し込む余地があるということです。日本に原爆が落ちたことは歴史的事実ですが、それによって「核を廃絶するべきだ」というのは「意見」でしかありません。それを「そのとおりだ」と思うか「違う」と思うかどうかの権利は、あなたにあります。これについては、事実と物語の玉石混交の中から、丁寧にひとつづつ拾い上げる必要があります。

 もう一つ「信じていいこと」があるとするならば、それはあなた自身の感覚や心の声です。前編等で、「人の認知は完全ではない」やら「AIが自分よりも自分を知る日が来る」とか、言っておきながら何を言ってるんだ、といった感じですが、少なくとも今の科学では、貴方が今どういう気持ちになっているかを正確に測るすべはありません。心拍や発汗、体温の上昇等を見ることができても、あなたが実のところ喜んでいるのか、悲しんでいるのか、実際には何を考えているのか等を「本当の意味で」知ることはできません。少なくとも、他者の意見に踊らされるよりかははるかにマシだといえると思います。最終的にあなた自身が「こうしたい」と思うこと、それ自体を侵食することはほかの誰にもできないのです。それこそ脳に電極を埋め込むことになれば、また話は少々変わってくるのですが……。    しかし、この二つは時に相反することがあります。例えば、いくらあなたが自分自身を永遠の17歳だと思っていても、戸籍上の年齢はその数を増やし続けますし、実際の肉体は経過年数に応じた変化を続けるでしょう。そういったときに、あなたはどういう行動をとることができるのでしょうか?

自分の物語を「調整」し、他者に物語を伝搬する

 まず一つ言えることは、「事実」を変えることにはとてつもない困難を伴います。というより、実のところ「事実」は変えられない、といったほうがいいかもしれません。科学では時折新しい事実が発覚したり、今まで正しいとされていた事実がひっくり返されることがありますが、それは人々が「事実に基づいて構築したと思っていた物語」が間違っていただけであり、「事実」が突然生まれたというわけではありません。もちろん、あなたにとてつもない権力があれば、もしくは優秀な科学者であるならば、「事実」をより良い方向に向かわせていくことや、未来をより良くしていくための新しい「事実」を発見できるかもしれません。ただし、そうであっても事実を変えることが困難であることに変わりはありません。

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新しい「事実」は、時に人々を予想外の方向に導いていくが、それを制御することは多くの人にとってはとても難しい

 それよりも簡単なことは、自らの「物語」を調整することです。もちろん、これは自分だけの物語を作り上げている場合にしか使えません。そうでないならば、他者が物語を軌道修正してくれるのを待つしかありませんが、もしかしたら放棄されるかもしれません。自らの物語ならば、事実に合わせて物語を調整することができます。そうやって毎日物語を調整し、軌道修正を行うのは非常に手間のかかる作業です。今、この世の中はあたかも事実に見える他者の物語で溢れています。一度事実だと認定したものが、事実でないと判明したときに、即座に今までの過ちを自分の中で認め、新しい物語を紡ぐ柔軟性が必要であることは、頭にとどめておく必要があります。

 一方で、それが事実ではない物語だったとしても、それがコミュニティの中で共通認識となるならば、それは人々にとって事実と同等の価値を持ちます。事実、キリスト教は20億人の人々が信じる「物語」です6。例え多くの人々を信じさせることができなくても、継続的に自分の物語が自分の中に存在することを示し、他者に伝搬していくことで、自身の物語を存続させることは可能だと思います。「事実」を跳ねのけ、人が「永遠の17歳」でいられるように7

未来に物語を紡ぐ

 実際のところ、数年の間ならば自己の物語を維持し続けることはさほど難しくはないでしょう。社会の変化、事実の変化、他者の物語の変化は、一朝一夕の間に行われるものではないからです。しかし、変化は着実に、貴方の物語を錆びつかせていきます。その変化にアンテナ高く耳を傾け、自らの物語を調整し、人々に物語を伝える。そうすることでしか、あなたの物語を維持する術はないかもしれません。そうでなければ、あなたの物語は永遠にその時を止めて時代や人々からおいてかれるか、他者の与える物語に呑まれることになるでしょう。

 また、もしあなたが既に誰かの物語に苦しんでいるならば、今が新しい物語を紡ぐチャンスかもしれません。確かに、今あなたを支配している物語は、一見そう簡単に変わることはないように見えるかもしれません。しかし、そういった物語も、注意深く観察すれば事実との不整合がどこかに見つかるかもしれません。そのとき、あなたはあなた自身を支配する物語から解放され、新しい物語を紡ぐ道を選ぶでしょうか?それとも不都合な真実にずっと身を委ねる道を選ぶでしょうか?未来を手中におさめることができるかどうかは、あなた次第です。

 再度になりますが、もし自らの物語を未来につなげたいのならば、物語の変化は不可避です。永遠は停滞から生まれるものではありません。事実を無視したとしても、事実はあなたを都合よく守ってくれるわけではありません。事実は誰の身にも平等にやってきます。それに受け入れ、適応し、自分の物語を紡ぐことができるのはあなただけです。そのためには、本当の「事実」は誰も観測することはできないと知ったうえで、可能な限り事実をありのままに観測することです。事実を観測するときは、決してそこには誰の物語も挟んではなりません。それは、あなたの物語も例外ではありません。ありのままの事実の上に物語を組み立てないと、歪んだ事実は後になってぐらぐらを音を立てて崩れていきます。事実とあなたの物語が、これからも手を取って続いていくことを願っています。バーチャル「以外」の方々には、最後にハラリのこの言葉を贈ります。

「自分の偏見を暴き 、自分の情報源の確かさを確認するために時間と労力をかけるのは 、私たち全員の責任だ 。前のほうの章で指摘したとおり 、私たちは何から何まで自分で詳しく調べるわけにはいかない 。だが 、そうだからこそ 、せめて自分のお気に入りの情報源ぐらいは念入りに調べる必要がある」—『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 http://a.co/5ohNjBi

「バーチャルなあなた」へ

 ここからは私個人が所属している(と勝手に思っている)コミュニティに向けたメッセージなので、アバターとかVTuberであるとかVRSNSだとか言う言葉に縁のない方々は読み飛ばしていただければ幸いです。

 僕はバーチャル界隈によく出没する人間なので、これを読んでいる方々の中にはすでにバーチャルな存在としての自己を確立している方も多いのではないでしょうか。それが誰かの借り物でない限り、あなたは自らの物語を紡ぐ能力と、それをするだけの意志をもっているはずです。しかし、それは決して事実から目を背けて良いことにはなりません。もし、あなたが「あなた」でいたいなら、事実に真摯に耳を傾け、その上に大胆にあなたの物語を構築しましょう。もし、既に綻びが見えているならば、修復可能なうちに物語を調整したほうが良いかもしれません。後になって、すっかりあなたの物語が錆びついてしまっていることに後から気付いても、修正することはとても難しいです。永遠の「あなた」は、継続的な適応の末にのみ存在することを、どうか覚えておいてください。

 大晦日でお酒を飲んでいて言ってることがだんだんとっ散らかってきたし、だんだん説教臭くなってきた気がするので、このへんで終わろうと思います。後から見返して恥ずかしくなったら2019年の最後は、この言葉で締めくくろうと思います。来年、2020年に答えを聞かせてくれることを心からお待ちしています。

『あなたは、誰ですか?』

謝辞(2020/1/1 追記)

年内には時間がなくて書けなかったのですが、前編、後編の文章を書くにあたり、僕の「人間にとっての科学至上主義は終わるのではないか」という疑問から本の選定をしていただき、その後も度々本の内容の解釈や歴史的事実の確認にご協力頂いたUnferth(@toopiltzinトピルツィン (@toopiltzin) | Twitter)さんに感謝の意を表します。