名前の無いノート

研究者見習いが名前の書かれてないノートに雑多なことを書き綴ります。

バーチャル研究者が綴る『ホモ・デウス(下巻)』レビュー(後編) ~「あなた」が紡ぐ物語

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「お前は誰だ1」……こんな厳しい言い方ではありませんが、僕はあなたに全く同じ問いを呼びかけます。

はじめに

 こんばんは、なもなき(@Nam0naki_)です。

 今年も残りあとわずか、皆さんはいかがお過ごしでしょうか。

nam0naki.hatenablog.com

 前回の記事で、僕はユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」を読み、その本が紡ぎ出す「人間至上主義の終わり」をまとめました。

 実のところ、全編の記事はホモ・デウスの「要約」に過ぎず、そこには僕自身の考えや意見はほとんど入っていません。

 今回は、レビューの後編として、僕の言葉でこれから我々がどうしていけばいいと考えているのかを、紐解いていければと思います。

 ただ、重要参考文献として、前回も挙げた「ホモ・デウス(下)2」及びその続編にあたる「21 Lessons3」を挙げさせて戴きます。これから僕が語る意見については、こちらの記述を大いに参考にさせて戴きました。しかし、その全てを読んだわけではないので、僕の解釈に誤りがある可能性があること、及びこの記事は僕の独自の意見をもって行うことをご了承ください。もし、時間がありましたら本を手に取って戴き、自分自身の考えを述べていただけると幸いです。

 それでは、どうかお付き合いいただければ幸いです。

あなたは「無知」である

 前回、人間の認知がいかに不完全なものであるかを述べさせていただきました。人はありとあらゆる物事に対して、「事実」をよく知りません。しかし、今日においては、たとえよく知らなかったとしても、その恩恵だけは享受することができます。例えば、家の蛇口をひねれば生存に必要不可欠な水がでてきますが、あなたはどのような仕組みで水が出てきているのか、ご存知でしょうか?水道料金を払ってるから?そういう意味ではありません。水道料金を払うことによって、どう言った契約が交わされ、どういう情報的もしくは物理的処理が行われ、水が出るようになるのか、ということです。

 ……すいません、意地悪なことを言いました。実のところ、僕自身も蛇口をひねれば何故水が出てくるのか、本当のところではよくわかっていません。ここで言いたいことは、私たちは日常的に身近に触れているものであっても、それがどういう事実によって生まれているものなのか、よくわかっていないということです。これは全てのことについて言えます。何故TVをつけたら放送が観れるのか?何故バーコードを読み込ませることで支払いができるようになったのか?僕はよくわかっていません。僕の専門であるVRの話をするならば、何故HMDを被れば遠くにいる私たちが近くにいるように感じられるのか?何故顔を近づけるとありもしない息遣いが感じられるのか?何故バーチャルな火から暖かさを感じることができるのか?もちろんバーチャル研究者である僕はそれについてある程度の知見を持ってはいますが、本当のところ、たとえ「推測」をすることはできても、人間の心を直接的に観測する手法を解明していない以上、私たちですら「事実」として、それに明確な回答を行うことはできないのです。

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我々はこの世界について、あまりに多くのことを知らない。(図は「無知の知」を提唱したといわれるソクラテス)

 しかし、本当に何も知らない、わからないのであれば、私達は何の選択もすることはできません。本日は大晦日ですが、大晦日の晩に何を食べるべきかすら、我々にはわからないはずです。しかし、実際には私達は何を食べるべきか、おぼろげながら共通の認識を持っています。それは一体、「何」なのでしょうか?

「物語」が紡ぐ意思

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お蕎麦、冬にぴったりな食べ物ですね。ところで、何故我々は大晦日におそばを食べるのでしょうか?

 さて、大晦日の晩に食べるべき食べ物、思い浮かべていただけましたでしょうか。「そば」以外の回答があるという方は是非コメントにお寄せいただけると幸いです。一旦は「大晦日の晩には蕎麦を食べるべき」という共通認識があるという前提で話を進めていきます。

 人は何かを知らないと、何事を為すこともできません。それを行う理由がないからです。しかし、現代において「事実」はあまりにも複雑怪奇となり、もはや人間にとっては理解の追いつかない代物となりました。いや、もしかしたら人類の生まれから現代において、一度たりとも「事実」に基づいて何かを為すことが出来たことは一度もないのかもしれません。もし人が「事実」を正しく制御できたのだとしたら、人間がここ数百年前まで苦しんできた飢餓や疫病や戦争は起こらなかったのかもしれないのですから。

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もし天然痘の感染、発症、流行の仕組みをもっと早く「事実」として認識できていれば、数百万の命が助かったかもしれない4

 では、「事実」ではないとすると、多くの場合人々は何に基づいて意思決定を行なっているのでしょうか?その答えが「お蕎麦」にあります。Wikipedia調べ5によると、年越し蕎麦はおよそ江戸時代中期ごろに始まった食文化のようです。その理由は「細く長いから長寿を願える」や「金を集める縁起物である」、「切れやすいから一年間の苦労や借金を切り捨てられる」、「縁が長く続くように」等いろいろな説があるようです。しかし、どれをとったとしても、そこには一つとして「事実」はありません。そも由来同士をとっても、「苦労を切りやすい」のに「縁が長く続く」ことを願っていたり、矛盾してしまっています。

 しかし、実際のところ、多くの日本人が大晦日の夜に何かしらの理由をつけてお蕎麦を食べています。それは、我々が大晦日にお蕎麦を食べることを正しいと「信じている」からに他なりません。そこには、家族であったり、友人であったり、インターネットの誰かだったりが伝えた「メッセージ」の影響なのではないでしょうか。私達はそれを信じ、その「物語」を享受する形で、お蕎麦を口にするのです。そこに「事実」は一切関係はありません。そしてそれこそが、人間至上主義の崩壊の先に残った唯一の「自由」なのではないかと思います。

「物語る」自由

 人々がどのような物語を信じるかについては、一定の権利が残されています。例えAIが人よりも多くの事実を知り、あなた自身のことについてさえあなたより多くのことを知ることになろうとも、あなたにはそれを超えた物語の上に生きる自由があります。何故僕が、そしてハラリが物語についてそこまで重要視をするのかというと、人は物語なくしては生きる理由を見失ってしまうからです。そして、物語が生み出す意思は大きなパワーを生みます。それは人を行動に駆り立て、手を取り合い、場合によっては闘争にまで人々を駆り立てます。物語について、ハラリはこのように述べています。

「人生の意味について問うときはほぼ例外なく 、人は物語を語ってもらうことを期待している 。ホモ ・サピエンスは物を語る動物であり 、数やグラフではなく物語で考えるし 、この世界そのものも 、ヒ ーロ ーと悪漢 、争いと和解 、クライマックスとハッピ ーエンドが揃った物語のように展開すると信じている 。」—『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 http://a.co/bheSFnH

 もちろん、これは劇薬にもなりえます。僕はハラリの書いた文章について、歴史に関する部分はそこまで多く読んでいないので多くを言及することは避けますが、「物語」を信じた人々によって多数の死者が出たこと、場合によっては人間同士が血肉の争いを行った事実は歴史上に多く記されています。しかし、それ以上に多くの人々に生きる意味を与えてきましたし、明日を生きるための活力を与えてきました。また、いくら物語を信じようとも、「事実」は容赦なく我々の身に降りかかってきます。自然災害が発生するという「事実」を、現状の我々は止めるすべを持ちません。また、これには異論のある方がいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも我々が生きてる間については、「死」という事実から逃れるすべを我々は持ちえないでしょう。それでも、私たちは「物語」を求めて、明日を生きていきます。

 よしわかった、じゃあ今まで通り物語を信じて生きて行っていいんだ!と思った人、ちょっと待ってください。先ほども言った通り、「物語」は「事実」の重みを和らげてはくれるかもしれませんが、完全に吸収してくれるわけではありません。また、「物語」と矛盾する「事実」が生まれたとき、その「物語」は容易に破綻します。なので、物語を信じる前にちょっと足を止めて考えてもらいたいのです。その「物語」、いったい「誰の」ものなのでしょうか?

物語を「奪う」者

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あなたが生きていく物語、それって本当に「自分のもの」になっていますか?

 先ほどの大晦日のお蕎麦の件を思い出してください。我々は何気なく大晦日に蕎麦を食べる「物語」の上を歩いていますが、先ほど申し上げた通りそれは自分でない誰かが作ったメッセージなのではないかと思います。そして、我々はそれを何気なく取り入れて、蕎麦を食べる意思を持っている。果たして、これは「誰の」意思なのでしょうか?

 あくまで「怪文書」として、大胆な予言をします。「人類至上主義」が終わろうとする日、企業、あるいは国家、もしくは個人、もしかしたらAIまでも……とにかく自分でない全ての「他者」は、あなたの「物語」を奪いにやってくるでしょう。それは自覚的に行われる場合もあるかもしれませんし、無自覚に行われる場合もあるかもしれません。物語を奪うということは、貴方が自分自身の力で物語を語る権利を剥奪し、代わりに他者が作った物語をあなたに刷り込むことです。「物語」の上であなたが生きざるを得ない以上、それは、あなたの「意思」を奪うことに等しいといえるかもしれません。そして、- もしそんなことが本当にあればですが - 人々の「物語」を掌握できたものがいたとしたら、その人はこの世界の「覇者」になれると考えています。

 もしかしたら、「それのどこが悪いの?」と考える方もいらっしゃるかもしれません。「他人の思うがままに生きる人生、それでいいじゃない」と。たしかにそれは一理あるといえるかもしれません。なんといっても、自分で考える必要がないのはとても楽です。何故明日を生きるのか、自分の人生はどこに向かっていくのか、それを毎日決めてくれる人がいれば、「自分が何をするべきか」と毎日頭を悩ませる必要もありません。しかし、一つ覚えておいてほしいのは、そのような「他者」は貴方の人生を決定づける一方で、あなたの人生には何も責任を持ってくれない、ということです。誰かが「これは神に祈りを捧げる重要な儀式だ」と言われ、嬉々として石を積み上げたとしても、最終的には「他者」のための家の土台になってしまうかもしれません。ようやく石を積み上げ終わったとき、そして、「事実」を知らされたとき、あなたは「話が違う」というでしょう。しかし、他者は冷徹にこう言い放つかもしれません。「そんなこと言ったっけ?」と。

あなたが「信じられる」もの

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何も信じられないこの世の中、貴方は何を信じますか?

 自分ではない全ての他者が作った物語は、すべて「あなたのもの」ではありません。それは、何かしらの目的をもって他者が自分、もしくは不特定多数のものに向けて作り出したものです。それを取り込むことは、「自分の意志を他人に明け渡す」というそれなりの「リスク」を伴います。今日の晩御飯くらいは他者が作ったプロパガンダに身を委ねてもいいかもしれませんが、日々の人生を生きる理由を他者の物語に委ねるならば、あなたは「自由」をその身から手放すことになります。そして、「事実」によって破綻した物語は、もうあなたの身を守ってはくれません。その日がきたときに、あなたは明日から何をして生きていけばよいのでしょうか?

 そんな中、僕が信じていいのでは、と思うことは大きく分けて二つあります。一つは、ありのままの「事実」です。例えば、ニュートン力学は、少なくとも地球上においては大体の物質の流れを正しく導き出すことができます。これには、他者の「意思」や「思想」は一切関係ありません。少なくともあなたが地球上に生きているうちは、信じていい事柄だといえるでしょう。また、過去に起きたことも「事実」として信じていいかもしれません。第二次世界大戦が起こったという「事実」は、それを「隠す」ことができたとしてもそれをゆがめたり、そっくりそのままなかったことにすることはできません。原爆記念館に残された記録は、日本に原爆が落ちたという「事実」を、限りなく正確に保管しています。

 気を付けてほしいのは、「事実」を語ること自体に、他者の物語を差し込む余地があるということです。日本に原爆が落ちたことは歴史的事実ですが、それによって「核を廃絶するべきだ」というのは「意見」でしかありません。それを「そのとおりだ」と思うか「違う」と思うかどうかの権利は、あなたにあります。これについては、事実と物語の玉石混交の中から、丁寧にひとつづつ拾い上げる必要があります。

 もう一つ「信じていいこと」があるとするならば、それはあなた自身の感覚や心の声です。前編等で、「人の認知は完全ではない」やら「AIが自分よりも自分を知る日が来る」とか、言っておきながら何を言ってるんだ、といった感じですが、少なくとも今の科学では、貴方が今どういう気持ちになっているかを正確に測るすべはありません。心拍や発汗、体温の上昇等を見ることができても、あなたが実のところ喜んでいるのか、悲しんでいるのか、実際には何を考えているのか等を「本当の意味で」知ることはできません。少なくとも、他者の意見に踊らされるよりかははるかにマシだといえると思います。最終的にあなた自身が「こうしたい」と思うこと、それ自体を侵食することはほかの誰にもできないのです。それこそ脳に電極を埋め込むことになれば、また話は少々変わってくるのですが……。    しかし、この二つは時に相反することがあります。例えば、いくらあなたが自分自身を永遠の17歳だと思っていても、戸籍上の年齢はその数を増やし続けますし、実際の肉体は経過年数に応じた変化を続けるでしょう。そういったときに、あなたはどういう行動をとることができるのでしょうか?

自分の物語を「調整」し、他者に物語を伝搬する

 まず一つ言えることは、「事実」を変えることにはとてつもない困難を伴います。というより、実のところ「事実」は変えられない、といったほうがいいかもしれません。科学では時折新しい事実が発覚したり、今まで正しいとされていた事実がひっくり返されることがありますが、それは人々が「事実に基づいて構築したと思っていた物語」が間違っていただけであり、「事実」が突然生まれたというわけではありません。もちろん、あなたにとてつもない権力があれば、もしくは優秀な科学者であるならば、「事実」をより良い方向に向かわせていくことや、未来をより良くしていくための新しい「事実」を発見できるかもしれません。ただし、そうであっても事実を変えることが困難であることに変わりはありません。

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新しい「事実」は、時に人々を予想外の方向に導いていくが、それを制御することは多くの人にとってはとても難しい

 それよりも簡単なことは、自らの「物語」を調整することです。もちろん、これは自分だけの物語を作り上げている場合にしか使えません。そうでないならば、他者が物語を軌道修正してくれるのを待つしかありませんが、もしかしたら放棄されるかもしれません。自らの物語ならば、事実に合わせて物語を調整することができます。そうやって毎日物語を調整し、軌道修正を行うのは非常に手間のかかる作業です。今、この世の中はあたかも事実に見える他者の物語で溢れています。一度事実だと認定したものが、事実でないと判明したときに、即座に今までの過ちを自分の中で認め、新しい物語を紡ぐ柔軟性が必要であることは、頭にとどめておく必要があります。

 一方で、それが事実ではない物語だったとしても、それがコミュニティの中で共通認識となるならば、それは人々にとって事実と同等の価値を持ちます。事実、キリスト教は20億人の人々が信じる「物語」です6。例え多くの人々を信じさせることができなくても、継続的に自分の物語が自分の中に存在することを示し、他者に伝搬していくことで、自身の物語を存続させることは可能だと思います。「事実」を跳ねのけ、人が「永遠の17歳」でいられるように7

未来に物語を紡ぐ

 実際のところ、数年の間ならば自己の物語を維持し続けることはさほど難しくはないでしょう。社会の変化、事実の変化、他者の物語の変化は、一朝一夕の間に行われるものではないからです。しかし、変化は着実に、貴方の物語を錆びつかせていきます。その変化にアンテナ高く耳を傾け、自らの物語を調整し、人々に物語を伝える。そうすることでしか、あなたの物語を維持する術はないかもしれません。そうでなければ、あなたの物語は永遠にその時を止めて時代や人々からおいてかれるか、他者の与える物語に呑まれることになるでしょう。

 また、もしあなたが既に誰かの物語に苦しんでいるならば、今が新しい物語を紡ぐチャンスかもしれません。確かに、今あなたを支配している物語は、一見そう簡単に変わることはないように見えるかもしれません。しかし、そういった物語も、注意深く観察すれば事実との不整合がどこかに見つかるかもしれません。そのとき、あなたはあなた自身を支配する物語から解放され、新しい物語を紡ぐ道を選ぶでしょうか?それとも不都合な真実にずっと身を委ねる道を選ぶでしょうか?未来を手中におさめることができるかどうかは、あなた次第です。

 再度になりますが、もし自らの物語を未来につなげたいのならば、物語の変化は不可避です。永遠は停滞から生まれるものではありません。事実を無視したとしても、事実はあなたを都合よく守ってくれるわけではありません。事実は誰の身にも平等にやってきます。それに受け入れ、適応し、自分の物語を紡ぐことができるのはあなただけです。そのためには、本当の「事実」は誰も観測することはできないと知ったうえで、可能な限り事実をありのままに観測することです。事実を観測するときは、決してそこには誰の物語も挟んではなりません。それは、あなたの物語も例外ではありません。ありのままの事実の上に物語を組み立てないと、歪んだ事実は後になってぐらぐらを音を立てて崩れていきます。事実とあなたの物語が、これからも手を取って続いていくことを願っています。バーチャル「以外」の方々には、最後にハラリのこの言葉を贈ります。

「自分の偏見を暴き 、自分の情報源の確かさを確認するために時間と労力をかけるのは 、私たち全員の責任だ 。前のほうの章で指摘したとおり 、私たちは何から何まで自分で詳しく調べるわけにはいかない 。だが 、そうだからこそ 、せめて自分のお気に入りの情報源ぐらいは念入りに調べる必要がある」—『21 Lessons 21世紀の人類のための21の思考』ユヴァル・ノア・ハラリ著 http://a.co/5ohNjBi

「バーチャルなあなた」へ

 ここからは私個人が所属している(と勝手に思っている)コミュニティに向けたメッセージなので、アバターとかVTuberであるとかVRSNSだとか言う言葉に縁のない方々は読み飛ばしていただければ幸いです。

 僕はバーチャル界隈によく出没する人間なので、これを読んでいる方々の中にはすでにバーチャルな存在としての自己を確立している方も多いのではないでしょうか。それが誰かの借り物でない限り、あなたは自らの物語を紡ぐ能力と、それをするだけの意志をもっているはずです。しかし、それは決して事実から目を背けて良いことにはなりません。もし、あなたが「あなた」でいたいなら、事実に真摯に耳を傾け、その上に大胆にあなたの物語を構築しましょう。もし、既に綻びが見えているならば、修復可能なうちに物語を調整したほうが良いかもしれません。後になって、すっかりあなたの物語が錆びついてしまっていることに後から気付いても、修正することはとても難しいです。永遠の「あなた」は、継続的な適応の末にのみ存在することを、どうか覚えておいてください。

 大晦日でお酒を飲んでいて言ってることがだんだんとっ散らかってきたし、だんだん説教臭くなってきた気がするので、このへんで終わろうと思います。後から見返して恥ずかしくなったら2019年の最後は、この言葉で締めくくろうと思います。来年、2020年に答えを聞かせてくれることを心からお待ちしています。

『あなたは、誰ですか?』

謝辞(2020/1/1 追記)

年内には時間がなくて書けなかったのですが、前編、後編の文章を書くにあたり、僕の「人間にとっての科学至上主義は終わるのではないか」という疑問から本の選定をしていただき、その後も度々本の内容の解釈や歴史的事実の確認にご協力頂いたUnferth(@toopiltzinトピルツィン (@toopiltzin) | Twitter)さんに感謝の意を表します。

バーチャル研究者が綴る『ホモ・デウス(下巻)』レビュー(前編) ~人間至上主義が終わる日

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話題沸騰の「ホモ・デウス」、皆さんは既にお読みになられたでしょうか?

はじめに

 こんにちは、なもなき(@Nam0naki_)です。

 この記事はVNOSアドベントカレンダーの23日目の記事となります。

 え?投稿日が24日になってる?気にしたら負けです。

 さて、簡単に自己紹介させていただくと、僕はバーチャルVR研究者として、同じVNOSのバーチャル美少女ねむさんと人類は美少女になるべきか議論したり、学術系アイドルグループHolographicの一員であるよーへんさんの配信によくお邪魔させていただいたり、何故か歌ってみたを投稿したりオリジナルソングを歌ったり龍が如くを始めたとしたゲーム実況をやったりしています。

 あと、最近はよくTwitterお料理とかお酒とかをアップしています。皆さんもよかったらおすすめのウィスキーを是非教えて下さい。

 さて、今日の記事では少し前に世間を賑わせた「ホモ・デウス1」を読んだので、そのレビュー及びVR研究者なりの独自の解釈を加えて持論を展開したいと思います。

 なお、僕は後半に当たるホモ・デウス(下)しか読んでいません。なので、上巻で述べられていた項目については論じることができない、ということを先にお詫びしておきます。

 また、この本がどういう背景によって書かれた本かについてはここではあえて解説しません。僕のレビューを見て興味を持たれた方は是非本書を手にとっていただければと思います。

 余談ですが、相方であるねむさんがこの本について独自の論を展開していますが、こちらの本には一切こんなことは書かれておらず、むしろ人々が「ホモ・デウス」を目指すことに人々は技術を自らの手で制御できなくなる、と述べています(少なくとも僕からはそう読み取れます)。

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この本は一言もそんなこと言ってないよ!ねむさん!

 一方で、僕自身も独自の理論を展開するので、この文章は『怪文書』として心のうちにとどめてもらえればと思います。 

 なお、本稿において何度も「事実」と「真実」という言葉がでてきますが、こちらの記事を参考に、以下のように区別したいと思います。

▶︎「事実」……客観的な本当の事柄。実際に起きた事柄。英語訳では「fact」。
▶︎「真実」……主観的に本当と思われること。嘘偽りではないこと。英語訳では「truth」。

人間至上主義が見た「夢」

 およそ700年前の1300年頃、我々の行いの「正しさ」を決めるのは宗教でした。同性愛は認められるべきか?何故人殺してはいけないのか?自分の今やろうとしていることは正しいのか?そのような様々な問いにぶつかったとき、人々は「過去」に答えを求めました。聖書を読み、司祭に教えを乞い、「神」が答えを教えてくれました。人々はその答えに従い、明日を、将来をどのように生きていくかを決めていました。

 しかし、科学を基礎とした人間科学至上主義によって、「正しさ」は大きく形を変えるようになりました。この経緯については「ホモ・デウス(下)」では詳しく述べられてなかったため、ここでは割愛します。

 現代において、多くの人は宗教に「正しさ」や「答え」を求めていません。「教え」は求めるかもしれませんが、もはや何かに悩んだとき、相談する相手は聖書に見聞の深い司祭ではありません。何故ならば、彼らは聖書は知っていても、彼らの求める「真実」は知らないからです。

 代わりに、人は「事実」を調べようとします。もしくは、どこかの専門家に「事実」を問います。あるいは自分でない、友達や家族、先生等に「相談」をします。もちろん、彼らは聖書のことをほとんど知りません。そして、それを元に自分に「真実」を問いかけるのです。「自分は何をするのが『正しい』のか?」と。

 宗教が絶対的に正しく、全ての答えを教えてくれるという考えは「人間至上主義」によって終わりを告げました。人々は「人間こそがこの世で最も正しく、最も適した『真実』を導き出すことができる」と言う境地に立ったのです。これは、科学技術の発展の賜物と言えます。人々はこの世のありとあらゆるものを技術によって制御し、操り、そこから得られる全ての利便性をこの手に享受するようになりました。技術の発展は人々の死亡率を大幅に下げ、投資家達は技術がこれから起こしてくれる「奇跡」に期待し、資金援助を行いました。結果、人々がこれほどまでに「便利」を享受することができる世の中が訪れるようになりました。

 もちろん、その裏では多くのものが犠牲になりました。科学技術によって大気は汚染され、水は汚れ、大量に排出された二酸化炭素地球温暖化を引き起こしました。ただ、本稿ではこれについて述べたいのではなく、「人間の選択することは全て正しい」という「人間至上主義」が何故終わるのか、そして後編ではVR技術はどのような役割を果たすのか、お話していきたいと思います。

 科学技術の発展に傾倒し続けた結果、我々人間(ホモ・サピエンス)は全てを知り、遥かに優れた人間モデルを持つ新人類(ホモ・デウス)を夢見るようになります。しかし、ホモ・デウスに「なる」ことができるのは、果たして「我々」なのでしょうか?

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我々は「スーパー日本人」になることができるのか?

人間は必ずしも正しくない? ~ 人間至上主義の終わり

 昨今、AIが(ある限られたシーンにおいて)ですが人間を知能的に上回るシーンを度々目にするようになりました。チェス、将棋、クイズ、囲碁……。AlphaGOがまだ10年、20年はかかるだろうと言われた囲碁の分野において人間を打ち負かし、一躍AIブームを巻き起こしたことは、記憶に新しいです。

 コンピュータが「学習」をしないただの「計算機」だったころ、それまでもっとも価値が高いとされてきたのは人間の「学習」、「経験」及びそれに基づく「思考」でした。人間は学校や図書、またはテレビやインターネットのメディアなどを用いてあらゆることを「学習」します。そして、実際に自分の目や耳、手足や舌等で多くのことを「経験」します。そして、それに基づいて人々は「思考」し、「答え」を導き出します。人類史上主義の始まりからここ10年前の現代まで、それこそが地球上最も自分にとって正しい「真実」だと信じられてきました。

 しかし、科学実験において、人間の導き出す「答え」が本当に思考によるものなのか、「学習」や「経験」に裏打ちされたものなのかどうか、ましてや「真実」なのかどうか、疑問に思われる事実が浮かび上がってきました。左脳と右脳が違った答えを導き出したり、脳波を観測することで人の「答え」を「思考」より前に予測することができたり、結論ありきで「物語る」自己であったり、人間はたとえ「経験」していたとしても「事実」を正しく観測しておらず、むしろ様々な「不具合」によって歪められた「真実」を観測しているとしか思えない現象が数々の実験によって明らかになってきました。これについては本書を是非手にとって見ていただきたいですし、認知バイアス等の「○○バイアス」で調べていただければいろんな「事実」を知ることができるので、是非調べてみて下さい。結論から言うと、人間は「事実」として、「不確定な真実」の断片から「意味」を見出したり、それをつなぎ合わせて一つの「物語」を紡ぎ出すことには非常に優れていますが、逆に「事実」を正しく観測することはできていないことが明らかになりました。

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AとBが同じ色という「事実」を聞いても、我々がそれを「真実」として信じることはとても難しい2

 一方、コンピュータは科学技術の発展によって、自らデータを「学習」し、場合によっては自己対戦等によって「経験」し、その結果統計的に裏打ちされた「答え」を導き出す手法を確立しました。ご存知「機械学習」です。機械学習によって、コンピュータは人の「思考」に頼ることなく、自ら結論を導き出すことができるようになりました。機械学習には様々なアルゴリズムがありますが、基本的にはコンピュータがより効率的にデータを処理して、答えを出すためのお手伝いをしているだけで、人間が「こうやったらこのゲームで勝てるようになるよ」等といった「戦略」を一つ一つ手ほどきしてるわけではありません。場合によっては将棋などでは「三駒関係」という人間がおおよそ「戦略」として採用しないであろうデータをコンピュータは戦況判断するための「戦略」として採用したりします。

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三駒関係による価値判断の一例。将棋をかじってる人は直感的に「左のほうが良い形」と判断するのですが、これをコンピュータは全パターンにおいて数値的なスコアをつけて判断し、戦況を判断する。でも、最近はこの手法も頭打ちになっているそうです3

 ここでは、機械学習や、それに基づく強化学習、深層学習の手法については詳しくは述べません。もし、それらについて詳しく学習したいのであれば数学的な知識を身に着けた上で以下の本等に挑戦されることをおすすめいたします。

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恐ろしく難しい黄色い本で有名な一冊4。これを書いてる筆者を含め多くの人間があまりに難しすぎて匙を投げ出している。ちなみに一部の章は漫画で勉強することができるよ5。いい時代になったものだね。

 本稿で大事なことは、機械学習は与えられたデータから人間の理解できるような意味を見出したり、そこから物語を紡いだり、はたまた感情を想起させているわけではありません。あくまで「事実」の羅列、コンピュータ的に言えば「記号列」としてデータを統計的に「処理」します。そこには、バイアスによって「事実」を歪める余地は存在しません。人間が何らかの目的の下、データを「ありのままに」コンピュータに学習させないことはありますが。

 それよりも大事なことは、コンピュータは人間よりも遥かに多くの「事実」を処理し、人間を遥かに凌ぐ速度で「経験」し、裏打ちされた「答え」を出す、ということです。人間はせいぜい一分間に600文字程度しか文字を読むことはできませんし、人生を二倍速で経験する、などと言ったことは逆立ちしてもできません。せいぜいアニメを倍速で見るのが精一杯ですし、それ以上の速度で見たら、それを正しく認識するのは不可能に近いでしょう。しかし、コンピュータは計算機の計算速度の限界まで、それを成し遂げてみせます。そして、その計算速度は「ムーアの法則」に従い、頭打ち説がささやかれながらも順調にその速度を伸ばしています。

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ムーアの法則が示すグラフとCPUの処理速度の相関6。2010年代後半になって限界は見え始めているものの、この計算速度の向上と機械学習の発展には切っても切れない関係がある

 果たして、こうなった時に「事実」を正しく判断し、より正しい「答え」を導き出してくれるのは一体誰なのでしょうか?

ホモ・デウスの座に座る者 ~ AI様の言う通り

 記号列としてデータを「正しく」与えることさえできれば、コンピュータは人間よりも遥かに早く、正確な答えを導き出すことができる時代はそう遠くありませんし、既に多くの分野で「事実として」そうなっている分野は数多くあります。ウーバーは人間の手を殆ど借りる事なく何百万ものタクシー運転者を管理することができますし、世界の株式市場の注文の多くは既にAIによって行われています7。こうなったとき、もはや「正しさ」は人間のものであると言えるのでしょうか?機械学習のプログラムを作るエンジニアでさえ、データの前処理を請け負ったり、「今回はこのアルゴリズムを使って学習して」と「お願い」することはあるものの、その結果コンピュータが何を学習しどのような答えをだすのか、そしてそれは何故かを正確に知ることはできません8。でも、実際にその答えに従ったほうが、多くの場合9何故かうまくいってしまう。

 こうなったとき、人間より全知全能で遥かに優れた見識を持つ「ホモ・デウス」は一体「誰」なのでしょうか?少なくとも、我々ではない「誰か」なのは確かなのかもしれません。もし、未だに人間が正しい判断をしている分野があったとしても、それはまだ「事実」をコンピュータが扱いやすい「記号列」にできていない、もしくはできる環境が整っていないだけであり、整った暁にはAIの判断が人間を上回るのはそう遠くない未来だと言えるかもしれません。そして、場合によっては「あなた自身」のことでさえ、「あなた」でない「誰か」がより「あなた」を知る時代が訪れるのかもしれません。

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人工知能に首輪をつけられてペットのように飼いならされている幸せな人類のイラスト」だそうです。人工知能のおかげで人類は幸せになったよ!やったね!

 ここまでが、ホモデウスの著者、ユヴァル・ノア・ハラリが導き出した「結論」です。但し、この本は以下の3つの重要な問いをもって締めくくられます(ここはそのまま引用します)。

1. 生き物は本当にアルゴリズムにすぎないのか?そして、命は本当にデータ処理にすぎないのか?
2. 知能と意識のどちらのほうが価値があるのか?
3. 意識は持たないものの高度な知能を備えたアルゴリズムが、私たちが自分自身を知るよりもよく私たちのことを知るようになったとき、社会や政治や日常生活はどうなるのか?
—『ホモ・デウス 下 テクノロジーとサピエンスの未来 ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ著
http://a.co/b9Mmdxw

 これらの問いは、我々人類(ホモ・サピエンス)にとっての「希望」なのかもしれませんし、最後に課せられた「使命」なのかもしれません。

ホモ・デウスで語られなかったこと ~ VR技術の果たす「役割」とは?

 さて、ここまでが僕なりの「ホモ・デウス(下)」のまとめであり、僕にとって重要な要旨を述べたものです。もはや事実を正しく認識する役割は人間が完全にイニシアチブを取ることは不可能となり、AIの言うことに少なくとも耳を傾けざるを得ない世の中になりました。それは、僕や皆さんの日常にも既に浸透しており、Google Chromeを開けばWebの閲覧履歴に基づいてAIによって選定されたおすすめの記事が目に止まりますし、Amazonを開けば購入履歴や閲覧履歴に基づいたおすすめの商品がトップページにでかでかと映し出されます。しかも、厄介なことにこの記事や商品は完全に「AIのみ」によって選定されたものではなく、何らかの意図をもって選択されたものも混ざっているようです。一方、そのおかげで提示データに「歪み」が生まれ、我々は幸いにもそれを積極的に「選ばない」自由を大いに行使することができます。

 しかし、もしそれが本当に我々にとって「正しい」選択であったとしても、それを享受しない人、言い換えるなら享受「したくない」人は多くいることでしょう。何故ならば、何故その選択が優れているのか、誰も教えてくれないからです。それはAI自身ですらそうで、それをいくらAIに問おうとも『得られたデータとそれに基づくアルゴリズム処理を行った結果こうなりました』としか言ってくれません。それを聞くと、人によっては『ロボットがおすすめする商品なんて温かみがないから買わん』なんて理不尽なことを言う人も出てくるでしょう。それに従うことが結局の所最も正しい選択であるのにも関わらず。

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来年もよろしくお願いいたします。手書き文字、温かみがあっていいですよね。この文字が本当に手書きで書かれたものなのか僕にはわかりませんが!

 人は「理由」を欲する生き物です。何故そのような選択が行われたのか?そこにはどのような「物語」があったのか?それがないままに「結論」だけを突きつけられるのは、どうも収まりの悪さを感じます。パッと見どうも正しそうに見えるけど、何故それに従う必要があるのか?それを納得できるように語る術をAIは今の所持ちません。しかし、僕はここに大胆に新しい技術を持ち出します。それが、VR技術です。そして、ここにこそ、判断に敗北を喫した我々の「自由」があると僕は考えます。

 さて、ホモ・デウスをまとめているだけでずいぶん長くなってしまったので、続きは後半で語ることにしようかと思います。可能な限り年内には後半の記事をまとめて、VNOSアドベントカレンダーのまだ開いてる日程に突っ込もうかと思いますので、皆様どうぞ期待せずに待っていただけると幸いです。

 それでは。


  1. ホモ・デウス -テクノロジーとサピエンスの未来- (https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07H9L4Y6L?ref_=dbs_r_series&storeType=ebooks)

  2. 12 fascinating optical illusions show how color can trick the eye (https://www.washingtonpost.com/news/wonk/wp/2015/02/27/12-fascinating-optical-illusions-show-how-color-can-trick-the-eye/?arc404=true)

  3. 〔Web〕 3駒関係・KPPTってなぁに?―激変する将棋ソフト世界(前編)(http://blog.livedoor.jp/nifu_senkin-daily/archives/77147310.html)

  4. パターン認識機械学習 上(https://www.amazon.co.jp/%E3%83%91%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%B3%E8%AA%8D%E8%AD%98%E3%81%A8%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E5%AD%A6%E7%BF%92-%E4%B8%8A-C-M-%E3%83%93%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%83%97/dp/4621061224)

  5. マンガで分かるPRML(https://booth.pm/ja/items/1317375)

  6. ムーアの法則)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87)

  7. 一応事実としてそうっぽいのですが確証がないので要出典としておきます

  8. 将棋ソフト「ポナンザ」開発者が語る「AIにとって人間が邪魔になる日も遠くない」(https://bunshun.jp/articles/-/3389)

  9. こう言ってるのは、未だに一部の分野においては人間の意志が介在する人間 + AIのタッグのほうが未だにAIオンリーを上回るからです。ただ、僕が題材としてあげようとしていた将棋は出典元の情報が2013年と古い(http://entcog.c.ooco.jp/entcog/contents/event/advanced_ito.pdf) ので、最新の情報があれば教えていただけると幸いです。

【ノットポエム】あの時『決意』を抱いた君たちへ【怪文書注意】

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決意を抱き続けるんだ!

(サムネイル出典→Undertale DETERMINATION by yamadaich on DeviantArt)

こんばんは、なもなきです。

いろいろと思うところがあったので、どこかの誰かに向けて怪文書をしたためました。

もしよかったら読んでみてください。


もしかしたら、僕の意見は君にとって少々厳しく見えたかもしれない。

しかし、事実はそのとおりだ。

一時の決意には、実はなんの意味もない。

君はあの時、奮起し、何かしらの決意を抱いただろう。

でも、そこから今直面している現実に絶望し、無力感に苛まれているかもしれない。

でも、落胆する必要はない。

あの時の決意が、今もしっかりと君の胸に残っている限りは。

これから、君の決意に対して多くの敵が立ちふさがるだろう。

それは他人かもしれないし、環境かもしれないし、もしかしたら自分の才能かもしれない。

もしかしたら、諦めたくなるような失敗をすることもあるかもしれない。

でも、どうかあの時に芽生えた決意の炎を絶やさないで欲しい。

決意の炎を絶やさず、夢に向かって地道な努力を一歩一歩続けていけば、いつかきっと道は拓ける。

周りの様子に焦ることもあるかもしれないが、自分のペースでゆっくりと、でも確実に進んでいけばいい。

実はこれが最も難しいことだ。

人生とはマラソンとはよく言ったもので、一定の努力を長期的に行うのは実はとても難しい。

ペース配分も必要になるし、途中に様々な障害が立ちはだかる。

その中で自分を律しながら、確実に前に進んでいくのはものすごく大変なことだ。

でも、続けていけば、君は他の人よりも遥かに高い所に到達できるはずだ。

いわゆるマッハでアウトプットを続けている人に、君は憧れを抱くかもしれない。

でも、彼らも一朝一夕でマッハで動けるようになったわけじゃない。

その裏には、膨大なインプットをして、そして実際に手を動かした期間がある。

その努力が見えないから、マッハで動いているように見えるだけだ。

残念ながら、時間はかかると思う。

ここ一年や二年で彼らに追いつけるとは安易に思わないほうがいい。

でも、あの時に抱いた決意を忘れず、一日一日を大切に走っていって欲しい。

何度も言うが、ゆっくりでいい。過度な出力を長期間続けられるのは一部のスーパーマンだけだ。

でも、もしある時、「今が自分の決意に大きく近づけるチャンスだ」と思ったら。

そのときは、出力を少しだけ大きくして走ってみるといいと思う。

きっと、予想以上に自分が早く走れていることに気づくだろう。

さぁ、僕と、皆と一緒にゆっくりと走り出そう。


この言葉がどこかの誰かに届いてくれることを祈ります。

以上、よろしくお願い致します。

【マッハ新書公開記念記事】4年間続けたソシャゲを辞めました。

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 こんにちは。なもなきです。

 久々の更新となります。

この度、私の初めてのマッハ新書が公開されましたのでその宣伝も兼ねてブログを書きます。

nam0naki.booth.pm

今回は今までとは趣向を変えて今回は断定口調で書いていこうと思います。

自分がここ二年くらいの間ほとんど誰にも言えなかった秘密の話です。

それでは、お楽しみください。


はじめに

 私事ではあるが、今回4年間続けていたソシャゲを辞めることにした。

自分が社会人になる前から始めていたのだから、我ながら相当長い間どっぷりハマっていたのだなと感心している。

始めたきっかけはささいなことで、「ソシャゲってのが流行ってるみたいであまり興味はないけど、食わず嫌いするのも良くないよな」といった感じだったと記憶している。

その当時はまさか自分が4年間もの期間をソシャゲに費やすとは思いもしていなかった。

試しにダウンロードしてみて、一ヶ月ほど続けてみたのが運の尽きで、それ以降はズブズブとソシャゲの沼にハマっていった。

 最初の頃はユーザも多く、度々有名実況者のガチャ動画や生配信も行われていて非常に楽しくゲームを続けることができた。

しかし、ソシャゲの市場競争は激しく、自分が遊んでいたソシャゲも段々と競争力を失い、ユーザは徐々に、しかし確実に人口減を続けていた。

2018年9月現在、そのソシャゲのプレイ人口は全世界でも3000人にも満たないのではないかと思う。

しかし、自分はそのソシャゲを今の今まで辞めることができなかった。

その上、「もはやオワコンになった(と自分が思っている)ソシャゲを続けている」という自分自身に恥ずかしさを感じ、自分はそのソシャゲを続けている事を、他の人にずっと秘密にするようになってしまっていた。

そのような後ろめたさを抱えながらも、プレイ時間はダラダラと伸び続け、最終的に4年間でゆうに5000時間はこのソシャゲに費やしたと思う。

特に、最後の一年くらいはつまらなさのほうが先行していて、プレイしていてもちっとも楽しさを感じることができなくなっていた。

それでも、自分はそのソシャゲを辞めることはできなかった。

どうしてソシャゲを辞めることができなかったのか、そして何故今辞めることができたのか。

個人的なことであるし、ひとたび検索すれば似たような記事がゴロゴロ転がっている話であるが、自分への備忘録としてここに書き留めておきたいと思う。

知っている人ならこれからの話でもしかしたら何のソシャゲをやっていたか特定できてしまうかもしれないが、それはそれでいいと思っている。

しかし、一応特定を避けるため、いくらかのフェイクを織り交ぜながら話していきたいと思っている。

そのため、話半分に聞いてもらえれば幸いである。

(2018年現在、ひとえにソシャゲといっても様々な種類のものがあるが、本稿で扱うソシャゲはいわゆるパズドラのような一人用プレイを基本とし、石を使ってガチャを引くようなクラシックなソシャゲをイメージしてもらえれば幸いである)

辞められなかった理由

ゲーム性が高く、楽しかった

 意外と思われるかもしれないが、そのソシャゲは比較的戦略性の高いゲームだった。

エストを攻略するためのチーム編成にいくつもの組み合わせが存在し、高難易度クエストになると「そんな攻略法があるのか!」と他のユーザの攻略動画や攻略フローチャートを見て驚嘆することも頻繁にあった。

自分は事前に綿密に戦略を練り、本番でその通りに実行して攻略するというゲームが大好きだった。

そのため、そのソシャゲと自分は非常に相性が良かった。

これがもし、単純にガチャで強いキャラを引き、レベルを上げて物理でで殴るような底の浅いゲームだったら自分はここまでのめり込まなかったであろう。

今振り返ってみればたかがソシャゲであったけれど、その高い戦略性と他では味わうことのできないゲーム性は自分をつなぎとめるために充分な効力を持っていた。

自身がとんでもなく損切りの下手な性格だった

 これは自身の性格の話であるが、自分は恐ろしく損切りの下手な人間だった。

これについては今も性格が変わったわけではないため、正確には「損切りの下手な人間である」と言ったほうが正しいかもしれない。

自分は昔から「やる」と決めたことに対しては恐ろしくこだわりの強い人間だった。

それこそ一つのゲームを「やる」と決めたときはそのゲームでトップランカーになれるレベルまでに極めることを良しとするタイプの人間だった。

これは、「やる」と決めたことに対して高いクオリティを維持できる利点はあるけれども、同時になかなか手を引くことができないという危険性を持つ。

実際、自分がソシャゲを続けている間はどんなに難易度の高いクエストであっても、ほとんど課金なし(4年間で課金額は2万いってないと思う)でノーコンティニュークリアを達成していた。

ただ、その「俺は高難易度クエストでもほぼ無課金でクリアできる」というプライドが自分の引退の邪魔をしていた。

結果、辞めたいという気持ちよりも「次の高難易度クエストもクリアしなくては」という義務感やプレッシャーが勝ってしまい、自分はなかなかゲームを辞めることができなかった。

継続的プレイを要求された

 他のソシャゲをプレイしたことがないのでわからないが、普通のソシャゲなら、一度引退しても復帰した時に最新のガチャを回せばすぐトップランカーに追いつき、高難易度クエストもクリアできる、というものが大多数だと聞いている。

しかし、自分がプレイしていたソシャゲはそういったゲームとは異なり、かなり継続的なプレイを要求するものであった。

というのも、2年前や3年前に実装されたユニットが未だに攻略の必須ユニットとして重宝されるためであった。

時には、1年前のある時期にしか配布されておらず、現在は入手不可なユニットが高難易度クエストでは必須、といったこともザラであった。

高難易度クエストのクリアを目指している自分は、このような状況に対して「少しの間休んでたら次の高難易度クエストで休んでる間に配布されてたユニットが必要になるかもしれない」と不安感を募らせていた。

結果、いくらつまらなくても将来のクエストに必要になるかもしれない新規ユニットを確保しておかなくては、という思いが先行し、プレイを続ける要因となっていた。

ほぼ無課金でも工夫次第で高難易度クエストをクリアできた

 もし、このソシャゲがいわゆる「課金ゲー」であったならば、自分は即刻このゲームに見切りをつけていたと思う。

しかし、このゲームは比較的課金をほとんどしなくても高難易度クエストをクリア可能なバランスがとられていた。

ガチャを引くのに必要ないわゆる『石』は定期的に配られていたし、無課金であっても長時間プレイすれば高難易度クエストもなんとかクリアできるレベルに難易度の調整がなされていた。

事実、自分はこのゲームに2万円ほど課金したが、これは運営に対する今まで遊ばせてもらったお礼、もしくは手切れ金の意味合いが強く、クエストをクリアするという目的だけであれば課金は殆ど必要なかったように思う。

しかし、これが逆に自分が沼にハマるきっかけとなってしまった。

 初めて半年ほどの間無課金でこのゲームの攻略を続けた自分は「このゲームは無課金でもクリアできる」ということに対して妙なプライドを持つに至ってしまった。

そのため、無課金で攻略するために長時間プレイをし、高難易度クエストが出てはそれをいかに無課金でクリアするかに頭を悩ませる、という負のループに陥ってしまった。

それにより、自分は20代では特にお金よりはるかに貴重なリソースである「時間」を失ってしまった。

それでも自分は、「他の人が課金して攻略する中、自分は無課金でもやれている」という空虚な誇りを胸に、プレイを続けることを選択し続けた。

 パッと思いつく「辞められなかった理由」はこのくらいである。

次に、辞められた理由について考えていきたいと思う。

辞められた理由

時間的拘束があまりにひどかった

 リリース当初からの傾向であったが、自分がプレイしていたソシャゲは時間的拘束があまりにも強かった。

自分がプレイしていたソシャゲはいわゆる周回ゲーで、具体的に述べるのは難しいが、平日は1時間~3時間程度、休日は最低でも3時間、イベント時には下手すると日に6時間以上のプレイ時間を必要とした。

時には一時間に一度ドロップするかしないかのユニットを少しづつ重ね、高難易度クエストに備える……といったことも日常茶飯事であった。

自分は損切りが下手な人間ではあるものの、思考を必要としない単純作業が嫌いなタイプの人間でもあった。

そのため、クリアに向けてダラダラと周回を繰り返す日々は、自分にはとても耐え難いものであった。(といってもその単純作業を4年間続けていたためとても言い訳できないが……)

このような生活を毎日続ける中で、自分は「もう辞めなくちゃこのゲーム」という思いを少しづつ募らせていった。

新規高難易度クエストの追加頻度が低く、マンネリ化していた

 そのソシャゲは、大きく分けて二種類のクエストによって成り立っていた。

  • 難易度は低いが、何十週、下手したら何百週の周回を必要とするクエスト(大多数はこちらに位置する)
  • 難易度は高く創意工夫を必要とするが、基本的には一回だけクリアすれば良いクエスト(真にゲーム性を問われ、頭を使ったプレイを要求されるのはこっち)

そのため、このソシャゲを遊ぶ基本的な流れは、

  1. 前者のクエストを長時間かけて周回し、ユニットを育てる
  2. 前者で育てたユニットを使って後者のクエストを攻略する
  3. 次の高難易度クエストのクリアを目指し、1.に戻る

といったものであった。

しかし、人口減によってスタッフが削られたのか、ここ一年ほどは2. のクエストの追加がめっきり滞ってしまっていた。

2. に該当するようなクエストが追加されるのは一ヶ月に一回、下手したら2ヶ月近くまったく追加されない、といったこともあった。

その間、自分を含むアクティブユーザは1. のクエストをひたすら周回し、まだ見ぬ2. のクエストに対する準備をする……という状態が続いていた。

本来高難易度クエストをクリアして快感を得るのがこのゲームの目的なのに、その目標がなかなか現れないこと、さらにその現れない目標に対して何百週もクエストの周回を行うという途方もない苦労を行わなければならないという事実に対して、自分はだんだんと嫌気がさすようになっていった。

ゲームが今後一年は続きそうな雰囲気を感じた

 前述したとおり、自分が遊んでいたソシャゲはアクティブユーザがおそらく3000人にも満たないようなソシャゲだった。

大手の攻略サイトはとうの昔に更新をとりやめ、細々と更新を続ける個人ブログや、匿名掲示板の情報が攻略の頼みの綱だった。

当然ながら、サービス終了という言葉も度々匿名掲示板のほうでは囁かれていた。

 しかし、最近になって急に新規ユニットの追加のスピードが格段に上昇し、アプリ側も積極的にUI等のアップデートを行うようになった。

ソシャゲのサービス運用のやり方も多少なりとも聞いていたため、それを見た自分は、「あ、これはいわゆる『サービス終了前の最後の灯火』か『今後のサービス継続のためのテコ入れ』」のどちらかに該当するフラグだな、と直感的に理解した。

もし、今後ともサービスが継続するとしたら、少なくとも一年はサービスが続くであろう。

しかし、その一年の間このソシャゲを続けるモチベーションは、既に自分には残っていなかった。

自分がこのソシャゲを続けていた理由の一つに、「どうせだったらサービス終了まで見届けたい」というものがあった。

「もしまだ一年以上このゲームが続くんだったら、今のうちに辞めておいたほうがいいかな……」

皮肉にも、運営がやる気を見せたことが、逆に自分のモチベーションを削ぎ落とす結果になってしまったのである。

偶然にも運営(中の人)を知ってしまった

 これは全くの偶然であるが、重要な出来事の一つだったと感じたため、ここに記述する。

関東近辺に住むエンジニアの勉強会のようなイベントが有り、エンジニアの端くれだった自分も偶然そこに居合わせることになった。

勉強会は滞りなく終了し、そのまま懇親会へと移行することとなった。

そこで、偶然隣になった人に自分は話しかけた。

「どちらの方ですか?」

「○○です。」

「そうなんですね。私は○○です。(あ、自分がやってるソシャゲの開発やってる会社だ。でもそこそこ規模大きいし別のゲームの開発してる人だろうな)」

~~しばらく雑談~~

「ところで、何のゲーム担当されてるんです?」

「本当はあんま言っちゃいけないんですけど、△△と□□やってます」

そのとき、自分に衝撃が走った。

その時に述べられたゲームのうちの一つに、自分が今まさに惰性でプレイしているソシャゲが入っていたからだ。

その時はびっくりしたもののなんとか平静を装い、その人に自分がそのゲームをプレイしていることを悟られることなく帰路につくことができた。

期せずして、自分は自分がプレイしているゲームの開発メンバのうちの一人を知ってしまったのである。

また、雑談を通じて、その人がとても頭の良い人物であることがわかった。基本的なソフトウェアやサービス運用に対する知識はもちろんのこと、ソシャゲの運営で必要となる行動経済学などの知識にも非常に長けていた。

その知識の一端は、プレイしているソシャゲにも現れていた。この人が仕掛け人の一人であるならば、自分がハマってしまうのも無理はないな……と思わされるほどであった。

帰った後もしばらくそのソシャゲをプレイしていたが、「運営の人を知ってしまった」ことにより、運営の数々の施作に対してどうしても「運営の顔」のようなものがちらつくようになってしまった。

いくら今起こっているイベントが魅力的であろうと、それは彼ら運営によって狡猾に張られた罠の上で踊っているだけである。

その事実を、懇親会の会話を通じてまざまざを見せつけられてしまったのである。

そのような人に操られるような形でソシャゲを続けいくことは、自分にはどうしても屈辱であった。

露骨な集金施策が始まった

 前述したように、このソシャゲは無課金でも充分にクリア可能なものであった。

しかし、ここ半年は収益が上がってないのか、いくつもの露骨な集金施策が摂られるようになった。

具体的には有料石限定ガチャや、新規実装された新キャラを出にくくするような確率調整等の施策が行われ、徐々にではあるが既存の少ないユーザから長期的に課金を引き出す方向にシフトしているように感じた。

そして、それはもはや新規プレイヤーの参入がほぼ期待できないソシャゲにとっては最も効率の良い集金施策と言えた。

今はまだほぼ無課金でプレイできているが、この状況では近いうちに無課金でプレイを続けることは難しくなるだろう。

そう思った時に、このゲームに対して課金してまでゲームを続けるモチベーションは、自分には一切残っていなかった。

明らかな壊れユニットの実装と、それに対する掲示板の書き込みに冷めてしまった

 そのようなことを思っていた矢先、明らかな壊れユニットが目玉ユニットとしてガチャに実装された。

そのユニットは今主流の戦力に対してそのユニットを加えるだけで、パーティの強さを何割も底上げするような強さを持っていた。

しかし、そのユニットの追加タイミングは前の目玉ユニットが追加されたわずか一週間後の出来事であった。

これはこのソシャゲにおいては異常とも言えるペースであった(通常ならば目玉ユニットの更新は一ヶ月に一体程度)。

当然ながら多くのユーザは前の目玉ユニットの入手のためにガチャを回しているため、手持ちの石は残っていない。

「どうするか、まだクリアしてない常設クエストをクリアして石をかき集めるべきか……」と悩みながら、自分は匿名掲示板を覗くことにした。

「新規追加されたユニットみた?明らかに壊れじゃんwww」

「2万課金して引けたわwwよかった」

「くそー、3万課金したのに出ねー」

無課金石でゲットしてやったぜwwお前らざまぁwww」

そこには、久しぶりの壊れユニットの実装に嬉々として課金をし、ガチャを引く有象無象の姿があった。

そこで初めて、自分はその書き込みの様子に

「あほくさ」

と思ったのである。

 彼らは、ここ半年の課金煽りに対して「クソ運営」「俺たちの求めてるのはこんなんじゃない」と互いに鬱憤を晴らす同志のような存在であった。

そのため、今回の壊れユニットの実装に対して、さらなるインフレの予感とそれに対する危機感を募らせていてもおかしくない存在だと自分は思っていたのである。

しかし、いざ蓋を開けてみるとそこには運営に対してあっさり手のひらを返し運営へのお布施を行うユーザの姿があった。

結局、彼らも運営の手のひらで踊る者たちの一部にすぎなかったのである。

それを見て、完全に自分は「冷めて(覚めて)」しまった。

そして、その冷めた気持ちのまま自分は持っていた石の全てをガチャにつぎ込んだ。

先の施策によって新ユニットの排出を絞っている状況下では当然目玉の壊れユニットは出ず、そのまま自分はそのソシャゲをスマホからアンインストールした。

人生が楽しくなった

 ここまでが、ソシャゲを辞めた直接の経緯であるが、実はこれらよりもはるかに重要なきっかけとなった「理由」が存在する。そのため、最後にその理由を記述しておきたいと思う。

今まで、自分は自身の仕事の内容や、仕事から帰った後の毎日(その殆どがソシャゲに費やされる)の充実してなさに憤りを感じていた。

ソシャゲをしているせいで充実した毎日を送れていないために鬱憤を貯め、その鬱憤を晴らすためにさらにソシャゲに時間を費やす……といった負のループを繰り返していた。

しかし、そのような中自分のキャリアに対していろいろと思うことがあり、ゲームとは関係のない、仕事に関する情報を収集するためのTwitterアカウントを3月に開設した。

これ以降のことについては紆余曲折があるため省くが、結果的にたくさんの面白い人達を交流をすることができ、面白いことも沢山させてもらえた。

その結果、プライベートでやりたいことが今までより格段に増えた。

また、これらの出来事は今の仕事にも良い影響を与え、今までより前向きに、誇りを持って仕事に取り組みたいと思うようになった。

しかし、ソシャゲをプレイすることはその「やりたいこと」に対して明らかな阻害要因となっていた。

 ソシャゲをやりながら動画やTwitterを見ることはできるものの。当然ながら文章を書いたりプログラミングをすることはできない。

そういった時間的要因もさることながら、「他の誰にも明かせない後ろめたいことがある」という事実自体が自分の活動にとって大きなマイナス要因となりえるものだった。

その阻害要因を取り除くために、自分はソシャゲという「秘密」を自身から断ち切る必要があったのだ。

もし、今現在のリアルが充実していなかったら、今でもそのソシャゲを文句を言いながら続けていたかもしれない。

自分のリアルを楽しい方向に向かわせてくれた皆様にこの場を借りて感謝を申し上げたい。

おわりに

 余談ではあるが、この記事はあくまでソシャゲという存在を全否定するものではないということは申し上げておきたい。

ただ、ありきたりな表現ではあるが、ソシャゲのプレイのしすぎでリアルに支障をきたすのは本末転倒だと思っている。

ソシャゲはゲームのプレイを「習慣」として根付かせるノウハウの塊のような存在である。

また、長時間プレイし、ユニットをコレクションするという性質上、「サンクコスト」や「保有効果」を無限に積み重ねる性質がある。

こういった学術的知見から見た「ソシャゲがやめられない理由」については「行動経済学」という体系化された学問が存在するが、これについては長くなるので割愛する。興味を持たれた方は以下のページ等を参照いただきたい。

gamebiz.jp

自身の性格の問題は多少あったものの、「ソシャゲをやめられない仕組み」を知っている自分ですら4年間沼から抜け出すことができなかっことからも、この法則はとても強力であることがわかる。

 正直なことを言うと、ソシャゲを辞めて全く後悔していないかというとそれは嘘になる。

衝動的にアンインストールしたために強化素材は余りまくってるし、ユニットもまだまだ強くなる余地を秘めていた。

まだソシャゲを辞めてたかが5日程度であるが、辞めたことによって突然できた時間に今はただただ困惑するばかりである。

もし、この穴を埋めることのできる「何か」がなかったら、また再インストールしてソシャゲを再開してしまうかもしれない。

そうならないための戒めとして、今こうしてブログ記事を書いている。

もしかしたら空いた時間で、ソシャゲの代わりになにか別のゲームを遊ぶかもしれないが、それは自分が「楽しんで」やっていることのためそれで良いと思っている。

これからもっともっと人生が楽しくなれば、ソシャゲに戻ることもないと思っている。


最後までご覧頂きありがとうございました。

上記で記述していた「面白い出来事」の一部は、拙著である「僕がバ美肉おじさんになった理由」にて公開しております。

nam0naki.booth.pm

興味を持たれた方は是非そちらもご参照いただけると幸いです。

以上、よろしくお願いいたします。

【ノットコラム】VR技術は地方格差の特効薬となるか?

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はじめに

こんにちは。なもなきです。

最近ブログの更新が滞ってしまい申し訳ありません。

更新してない間は、銀座VRに参加したり、リモートで参加してくれた方にインタビューしていたり、Twitterで喚き散らしたりしていました。 本当はインタビュー記事的なことをやりたいなと思っていたのですが、メモを見たり録音を聞きながら内容を起こすとなるとどうしても時間がかかってしまい面倒くさいなかなかモチベーションが出ませんでした。

これはまずいということで、#ノットコラム の取り組みに賛同し、一時間縛りでインタビューのエッセンスを抽出したコラムを書こうというのが今回の取り組みの趣旨です。 モチベーションが戻ったらインタビュー記事も仕上げたいと思います。

それでは、どうぞ。

地方格差とは?

最近、地方の方とOculus GOを使って会話をする機会が複数回ありました。 その中で、「東京やその近辺で開かれているイベントに参加することができないのが残念でならない」という意見をよく聞きました。 自分も元は大阪の出身で、最近関東に出たと思ったら横須賀あたりに住んでいるという身分のため、東京のイベントに気軽に参加できないという気持ちはよくわかります。

しかし、そもそも東京でイベントをやっていて、それになおかつ参加したいと思うこと自体、実は相当にすごいことなのではないかなと思いました。 そして、その気持ち自体が地方格差を是正する特効薬になるのではないか、という風に思いました。

自分個人の意見ですが、地方と都会に生まれている「格差」には、以下の3つがあると考えています。

  • 知識の格差
  • 文化の格差
  • 経験の格差

これらについて、それがどこまで解決しているか、これからどうなっていくかについて説明していきます。

知識の格差

まず、知識の格差です。これは単純に「今の時代世の中がどうなっているかを知らない」という意味合いです。 例えば、全く外と通信できない環境に3年間閉じ込められたら、その間外で何が起きているかを一切知ることができません。 平安時代まで遡ると、地方の農民は奈良の平安貴族がどのようなもので、どんな生活をしているか知る手段はほとんどなかったのではないかなと思います。 このような状態では、そもそも「東京でイベントをやっている」こと自体知りようがありませんし、行きたいとも思うことはないでしょう。

しかし、知識の格差については殆ど解消されつつあるのではないかなと思います。 その理由は、テレビ、ラジオ等の情報メディアの普及、及びそれに続くインターネットを中心としたIT革命、スマートフォンを中心としたネットワークデバイスの普及です。 今の時代、スマホを持っていない人はいたとしても、手に入れることもままならないという人は随分減ったように思います。 現代のネットワーク網は全世界に広がっており、スマートフォンがあれば殆どの知識を調べることが可能な時代になっています。 つまり、「情報を手に入れる」という行為に対して位置の依存性がなくなってきているということです。

スマホを充分に使いこなせないおじいさんならいざしらず、これから大人になっていく地方の子供達にとっては、この「知識の格差」は大きな問題とならなくなるのではないかな、と思います。 (もちろん知識を入手するデバイスとしてスマートフォンを使いこなすことが前提です。これについては個々人の育ち方、育て方次第だと思います)

文化の格差

次は、文化の格差です。これは「今の時代のトレンドに触れることができない」といった意味合いです。 都会に対する知識はあっても、それに実際に触れることができるか否かでは大きな隔たりがあります。

例えば、地方出身を揶揄する有名な歌として、吉幾三の「俺ら東京さ行ぐだ」があります。 この歌詞は、東京に対する「知っている知識」と「知らない文化」の差を如実に表している面白い歌詞になっています。 「テレビ」や「ラジオ」がこの地方にないことを嘆くところからこの歌は始まります。 これは、「知識の格差」で、おそらく歌詞の語り手は「どうやら東京にはテレビとかラジオってもんがあるらしいぞ」ということを何かしらの手段で知ったのでしょう。 語り手はそれらを求めて「俺らこんな村嫌だ 東京へ出るだ」と管を巻きます。 しかし、ここからが面白いところで、「東京へ出だなら 東京でベコ(牛)飼うだ」と続きます。

もちろん、これを読んでいる皆様なら東京で牛を買うことがいかにナンセンスであるかということはお気づきになられるかと思います(東京の農家の人ごめんなさい)。 何故、このようなことが起こるのかと言うと、語り手が「東京には何があるか」はわかっていても「何が流行っているか」「何に価値があるか」をわかっていないということにつきます。 資本主義経済においては価値観とはすなわち「お金」で、「どのようなことに人がお金を払うか」がわからないということです。 これは、地方格差を生む大きな障壁となります。

しかし、この文化の格差についても現在は是正されつつあるのではないかな、と思います。 その理由は、イオン等の大型スーパーの地方への完備、インターネットショッピングの存在、アプリによる価値観の遷移です。

あまり意識することはないかもしれませんが、大型スーパーは地方格差の是正にかなりの貢献をしています。 相当な田舎ならまだしも、今の時代は地方にもイオン等の大型スーパーがあり、「全国一律」の商品を「どこでも」購入することができます。 これによって、今まで知識でしかなかった都会の商品を、どこでも購入することができるようになりました。 これによる是正の効果は凄まじく、「イオンがあるところは田舎じゃない」とまで言われるようになったほどです。

また、2010年代からamazonを始めインターネットショッピングが台頭しはじめ、ありとあらゆる商品をどこからでも購入し、自宅に配送してくれるようになりました。 「欲しい!」と思ったものを都会とほぼ同じ価格で購入することができるようになったのです。

一昔前は田舎の時代遅れなファッションを「芋っぽい」と揶揄することはあったと思いますが、今ではほとんど聞かなくなったのではないでしょうか? これは、「知識の格差」と「文化の格差」が埋まり始めているからにほかなりません。

また、時代の価値観自体がInstagram等のアプリ(ソフトウェア)に以降しつつあり、そもそも文化に触れるためにハードウェアを手に入れる必要性も薄れつつあります。 ここから、ようやく「体験の格差」とVRの話に入っていきます。

体験の格差

体験の格差とは、そのままで「都会と全く同じ/遜色ない体験ができる」ということです。 ここで言う体験とは、例えば銀座で開かれているイベントに参加する、横浜で開かれているコンサートに参加する、といったものです。 今でも、コミケやライブに参加するために地方から多額の金銭を払って関東に通われている方も多いのではないでしょうか。 この「体験の格差」は「文化の格差」がいくら埋まろうとも根強い溝を生みます。 何故なら、「体験を共有」することが「価値を理解」することにつながるからです。 いくら良さそうなイベントがあり、それがどれだけそこで流行っているからといっても、それが「自分にとって」価値があるかどうかは実際に行って体験してみないとわかりません。 多くの人は、「体験すること自体のコスト」と「体験しないとわからない価値」を天秤にかけ、多くの場合前者を優先してしまいます。 地方になればなるほど、前者のコストは大きく膨れ上がってきます。そのため前者を優先する確率は優位に上がっていきます。

これは、いくら新幹線等の交通網が発達しても、当分根強い問題として地方を苦しめる「はずでした」。 しかし、この問題についてVR技術が特効薬となってくれるのでないか、と期待しています。 これについて詳しく説明していきます。

VR技術が「体験の格差」を埋める?

ご存知の通り、VRVirtual Reality の略称です。日本では「仮想現実」と和訳されることも多いのですが、本当の意味は少し違います。 「Virtual」で和訳検索してもらえればわかるのですが、この言葉は本来「事実上の,実質上の,実際(上)の」と言った意味を持っています なので、本来のVRの和訳としては、「実質現実」または「実際現実」といった和訳が正しいです。 このままだとわかりにくいのでもう少し噛み砕いて言うと「表面上は多少異なるかもしれないけれども、現実と遜色ない状態である」ことを指します。

ちょっと脱線しますが、例えばカニカマは上記の観点から言ってVRです。 魚のすり身をカニの繊維を模した形に加工することで、食べた時に実質カニを食べた時のような味と触感を生み出しているからですね。 カニカマを「カニだ!」と思って食べている人は、完全にカニカマによって作られた実質的現実に酔いしれている状態であると言えます。

話を戻しますと、VR技術は現実と遜色のない「体験」を「実質現実」として表現します。 この体験こそが、地方格差を埋める特効薬になるのではないかと考えています。

昨今HMD等を中心として盛り上がっているVR技術は、現実と遜色のない体験を我々に与えてくれます。 Oculus GOやRift等を購入された方はその凄さを体験していただけたのではないでしょうか。 現在現実でしか体験することのできないイベントも、時代が進んでいけばどんどんVR側に写っていくのではないかと思います。 さらに言えば、現実では体験することのできない行為ですらVRでは体験できるため、VRで体験することの価値は際限なく上がっていくと考えています。

例えば、最近の例で言えば輝夜月のライブがVRで開催されることが決定いたしました。 www.moguravr.com 輝夜月のライブは残念ながら、VR技術なしの現実では体験することはできません。何故なら輝夜月はバーチャルにしか存在しないのですから。 このように、VRによる体験はこれから現実の体験をバーチャルに体験することから始まり、バーチャルでしかできない体験を我々に与えてくれるようになります。 ここに、地方や都会等の「位置による格差」は生まれません。何故ならばネット回線と然るべきハードウェアがあれば全世界で同じ体験をすることができるようになるのですから。 また、バーチャルでの体験ができるようになることで、「知識だけで知る」と「実際に体験する」の間を取り持つ「実質的に体験する」という行為をすることができるようになります。 これによってようやく、「実際に体験するためのコストを払う」か「実質的に体験する」ことを天秤にかけられるようになります。 実際、銀座VRにバーチャルで参加した人たちは「今度は実際に銀座VRに実際に参加したい」と言ってくれました。

体験の格差を埋める鍵は、VRにこそあるのだと私は考えています。

おわりに

さて、地方には3つの格差があること、そして最後の「体験の格差」を埋める鍵がVR技術にあることを述べさせていただきました。 しかし、いくらこれらの技術や道具があっても、それを「使いこなす」ことはその人自身にしかできません。 インターネットを使いこなすことのできない人は、一生インターネットを使いこなせる人との格差を埋めることができないのです。

なので、最も重要なことは、これらの新しい技術を使いこなし、自分のものにすることです。 もしここを見ている人でOculus GO等のHMDを購入している人は、それだけで他の人達より一歩も二歩も先に進んでいると言えるでしょう。 「HMDが存在する、購入できる」ということを知識として知っていて、さらにその価値を理解して実際に手元に持っているのですから。

最後に、自分のツイートを引用して〆させていただきます。

Roomsを使って遠くの人と会うという「経験」が、地方格差を真に破壊する第一歩となってくれることを祈っています。

以上、よろしくお願いいたします。

(本来一時間で仕上げる予定だったのですが、1時間半くらいかかったような……?まぁいいか)

BigscreenでVR空間ゲーム実況してみた

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はじめに

こんにちは。なもなきです。

前回に引き続きOculus GO関連の記事となります。所持されていない方は是非ご購入をご検討いただければと思います。

さて、皆さんPCゲームはプレイされてますでしょうか。 僕は中学生くらいからFPSを中心としたPCゲームが好きでよくプレイしてるのですが、最近は(昔から?)家庭用ゲームやスマホ等にシェアを取られておりさみしい限りです。 自分が楽しくゲームする様子を見てもっと興味を持ってほしい!と思うこともあるのですが、残念ながら私には現実に部屋に招待するような友達はいませんし、そもそも六畳一間の私のおうちに人を誘う余裕などありません。

現代風なやり方ではYoutube等に動画を上げる、配信するなどの方法もあると思いますが、どうせならもっとインタラクティブに視聴者とやりとりしながらゲーム配信がしたい!

そこで、ふと思いました。

VR空間に皆を招待してそこでゲーム実況やればよいのではないだろうか?」

と。

Oculus GOで遊べる様々なアプリの中に、「Bigscreen」というものがあります。 これは、PC画面をVR空間上に表示するために作られたソフトで、なんとOculus GOでも他人のPC画面を鑑賞することができます。 さらに、公式でも大画面でゲームをプレイすることが推奨されています。 bigscreenvr.com

しかし、自分がVR空間に入って操作するとなると映像遅延などの関係で時間的にシビアなFPS等のゲームをするのは非常に辛くなってしまいます。

そこで、今回は

「自分はPC上でゲームをしながら、視聴者だけをVR空間に招待してゲーム実況する方法」をご紹介いたします。

PCゲーマー向けということで需要あるんかいな、といった感じですが興味ある方は最後までお付き合いください。

BigscreenでのVRゲーム実況のやり方

配信者側

こちらの内容ですが、基本的には下の記事にかかれているようなRemote Desktop Clientで画面を写す方法と基本的には流れは同じです。 digi-bird.com

ただ、自分のマイク音声を乗せるための手順が追加されますのでそのあたりを中心にご説明します。

1. BigscreenをSteamまたはOculus Storeからダウンロードする

まず、Bigscreenをダウンロードします。ダウンロードする手段はSteamまたはOculusがありますが、どちらでも大丈夫です。 詳しいダウンロード方法についてはこちらでは割愛します。Steamですと上のブログ記事等をご参照頂ければと思います。

2. BigscreenをRemote Desktop Clientモードで起動する

どちらかの方法でBigscreenをダウンロードしたら、Remote Desktop ClientモードでBigscreenを起動します。Steamの場合はライブラリから「Bigscreen Beta」を右クリックして「Remote Desktop Streaming Clientをプレイ」をクリック、Oculusの場合はライブラリから「Bigscreen Beta」の横にある三点リーダをクリックし、「Start in Desktop Mode」をクリックします。

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3. Windows側のサウンド設定を操作し自分の声が配信されるようにする

このまま「START STREAMING」ボタンを押せば配信が開始されるのですが、残念ながらこのままでは配信者の声がVR空間に届かず、悲しい思いをすることになります。 OBS等の配信ツールではデフォルトで録音デバイスを配信に乗せることができるのですが、Bigscreenにはその機能はありません。 そこで、マイク音声をデスクトップ音声に乗せることで、擬似的にゲーム音声とマイク音声をミックスします。

まず、ツールバーの右下の音声マークを右クリックし、「サウンド」をクリックして音声デバイス設定を開きます。

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次に、「録音」タブに移動し、認識されているマイクデバイスを選択し、「プロパティ」をクリックします。

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最後に、「聴く」タブから「このデバイスを聴く」にチェックを入れて「適用」をクリックします。

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こうすることで、デスクトップ音声にマイクの音声が乗り、視聴者側に配信者の声を伝えることができるようになります。

4. 「START STREAMING」を押し、マイクのストリーム設定をONにする

音声が配信に乗るようになりましたので、満を持して「Instruction」タブ(家のマーク)から「START STREAMING」ボタンをクリックして配信を開始します。

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そのままでは配信側の音声をオフにする設定となっているため、「Your Multiplayer Room」タブ(人間が3人いるマーク)からサウンドっぽいマークをクリックして音が配信側に届くようにします。

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これで配信準備が完了したため、「CONNECT TO YOUR MOBILE VR HEADSET」ボタンをクリックしてIDを表示し、視聴者に教えてあげます。(COPY TO CLICKBOARDで貼り付けてもOK)

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以上で、配信者側の設定は終わりです。お好きなゲームを起動し、配信をお楽しみください。

もし視聴側でブロックノイズが頻繁に発生するようでしたら「Settings」タブ(歯車のマーク)から配信画質を「720P LOW LATENCY GAMING」を選択して頂ければ多少改善するかと思われます。

視聴者側

次に視聴者側です。今回はOculus GOでの視聴を前提に説明します。おそらく他のPCVR用ヘッドセットでも同様に視聴が可能だと思います。

1. BigscreenをOculus Storeからダウンロードする

まず、Oculus StoreからBigscreen Betaをダウンロードします。方法はスマホアプリからでもOculus GO内部からでもどちらでもOKです。割と常にトップに表示されていると思いますが、ない方は検索欄から「Bigscreen」と検索していただくのが早いかと思います。

2. Bigscreenを起動し、IDを入力して入室する

ダウンロードが終わったらBigscreenを起動し、「JOIN ROOM」をタップして部屋に入室する準備をします。

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先程教えてもらったIDをID入力欄をタップして入力します。「room-」は最初から入力されているためそれ以降からでOKです。

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入力が終わったら、「JOIN ROOM ID」をタップすれば、先程作成された部屋に入ることができます。

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動作例

以下、配信を見ている様子のスクリーンショットです。

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リビングルームやキャンプファイア等の様々なワールドで視聴をすることができます。他の視聴者が入ってきたらワールドにアバターが表示されますが、配信者はワールドに存在せず、声もモニターから聞こえます。

感想

感想ですが、今回私が1ページコラムを担当させていただきました同人誌、「Goに入ってはGoに従え!」にて掲載させていただいております。

shiraihakase.booth.pm

ご興味のあるかたは是非ご購入いただき内容を確認して頂ければと思います。他のコーナーも充実、というより完全に自分のコラムはおまけで漫画、アプリのクロスレビュー、デコGo写真集等盛りだくさんの内容となっておりますので是非手にとって頂ければ幸いです。

また、製本したバージョンも7/7(土)のJapanVR Fest. – 全てはVRのためにでサークル名「Oculus GOを楽しむ会」で頒布予定です。BOOTHで既に購入されていた場合、BOOTHでの購入記録をスタッフが確認の上1部のみ、スタッフがお手隙であればサイン本にしてお渡しします。また、当日に現地で購入することも可能ですので皆様是非足をお運び頂ければと思います。

また、この記事をみて興味を持たれた方がいましたら、是非実際にやってみていただいて感想をお聞かせください。

以上、よろしくお願いいたします。

Oculus GOろ寝のススメ

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画像はakitoさん(@)さんに頂きました。ありがとうございます!

TL;DR;

  • Oculus GOは今までのHMDではやりづらかった「寝て使う」という使い方ができる
  • Oculus GOを寝て使う(以下、GOろ寝)のに適したアプリをいくつか紹介
  • 皆もっとGOろ寝しよう!そしてアプリ開発者はもっとGOろ寝のことを考えよう!

はじめに

こんにちは。なもなきです。

突然ですが、皆さんOculus GOは購入されましたでしょうか。

Oculus GOはスタンドアロンで動き、さらに二万円強の価格(←超重要!)で購入することのできるHMDです。被って3秒でVR、な体験はOculus GOならではで発売からまだ二ヶ月経ってないにもかかわらず大きな話題を集めています。

以降は完全にOculus GO購入者向けの記事となります。持ってない人は今すぐ上のリンクからOculus GOを購入されることをおすすめします。




さて、皆さんはどのような姿勢でOculus GOを使用しているでしょうか。 椅子に座って使う、地べたに座って使う、立って使う、などなど、皆さん思い思いの姿勢でGOを利用されているかと思います。

(こちらは便座に座ってVRミーティングをしている@さんの様子。)

その中で、私が一番Oculus GOでおすすめしたい姿勢が「寝る」という姿勢です。 しかし、現在Oculus GOで利用できるアプリはほとんどが「寝て使う」ということを想定されておらず、非常に歯がゆい思いをしています。

そこで、今回はOculus GOがいかに寝て使うのに適したデバイスであるかを説明し、さらに寝て使うという行為にフォーカスしていくつかのアプリのレビューをさせていただきたいと思います。

GOろ寝がアツい!

Oculus GOはその様々な特性から、これまでのVR機器では敷居の高かった「寝て使用する」というシーンを簡単に体験することができます。また、Oculus GOが持ついくつかの弱点も「寝る」という姿勢をとることによりカバーすることができます。そのため、Oculus GOは様々なVRHMD(ハイエンド機器を含む)の中で最も寝て使用することに向いている、と言っても過言ではありません。以下、その理由をいくつか述べていきたいと思います。

Oculus GOが寝て使うことに適している理由

ベッドに簡単に持ち込める

まず、大前提としてHMDを寝て使うためにはHMDをベッドに持ち込むことが必要です。「そんなの当たり前だろ」と思うかもしれませんが、これが意外と敷居が高いです。というのも、現在主流なPC系VRやゲーム機を使ったVRHMDとは別に機材のセッティングが必要なため、ベッドの近くにそれらの機器を持ち込む必要がありますが、これが非常に面倒です。そもそもPCの近くにベッドがあるかどうかわかりませんし、電源の関係上近くに持ってこれない場合もあります。また、近くに持ってこれたとしてもコード等が邪魔になってしまい寝返り等を打った場合に体験が阻害されてしまいます。

一方、Oculus GOはスタンドアロンで動くHMDのため、電源等のコードを必要とせず簡単にベッドに持ち込むことができるうえ、先述したようにHMDを被れば3秒でVR体験ができます。これは、PC等を必要とする他のHMDにはなかなかない魅力です。

頭を枕にぐりぐりしても安心

スタンドアロンHMDのもう一つ有名なプロダクトとして、Mirage Soloがあります。しかし、Mirage Soloは見てもらえればわかるとおり、後ろのバンドがプラスチックでできているため、枕で寝て使おうとするとバンドが当たってしまって痛い目を見ることになります。(Mirage Solo未購入なので間違いがありましたらご連絡ください)

その点、Oculus GOはゴムバンドで後頭部を固定するため、HMD背面を後頭部に押し付けても一切問題ありません。そのため、枕の上でHMDを使っても不快感なくVR体験を楽しむことができます。

重さが軽減される

ここまでは「Oculus GOがHMDの中で寝て使うのに適している理由」を述べましたが、ここからは「Oculus GOを寝て使う」ことのメリットを述べていきます。

HMD一般のデメリットとして、被っていると意外と重さを感じるという点があります。Oculus GOは470gとHMDの中では比較的軽い方なのですが、それでも被っていると意識しないと頭を下に持ってかれる感覚があります。これが意外と曲者で、VR体験が疲れてしまう原因となりがちです。そこで、HMDを寝て使うことで、HMDを被った姿勢を維持するために余計な力を使う必要がなくなり、楽にVR体験を楽しむことができます。

頭を固定するので3DoF/センサなしのデメリットを打ち消せる

これはちょっと専門的な話になります。

Oculus GOの現在主流なHMD(Rift, HTC Vive等)と比べたデメリットとして、3DoFなためポジショントラッキングができない、という点があります。これは真面目に説明すると少々長くなってしまう(詳しくはこちら)のですが、某イラストサイトに一発で説明できる画像があります。

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3DoFと6DoFを一発で説明できるいらすと屋すごい

つまり、6DoFは体の動きや頭の動き等の全身の平行移動をトラッキングすることができますが、3DoFだと頭の回転しかトラッキングすることができません。これは通常のVR体験だと大きなデメリットとなります(スカートの中を見ることができなかったり)。

しかし、寝ることによって頭を固定してしまえば頭を横や縦に動かすことがなくなるためこのデメリットは意識する必要がなくなります。そのため、寝ることでOculus GOのデメリットを感じることなくVR体験を楽しむことができます。

以降、「寝て使う」ことにフォーカスを当てて、いくつかのアプリのレビューをしていきたいと思います。

GOろ寝アプリレビュー

ブラウザ(無料)

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メニューから「正面の向きをリセット」を押して寝てからブラウザを見るだけ。簡単!

まずはOculus GOの基本、ブラウザです。もしかしたらもう寝て使ってる人もいるかもしれませんね。皆さん、寝ながらスマホを使ってて顔にスマホが落ちてきてムキー!ってなった経験はありませんか?僕はいっぱいあります。そのためにアームを買うくらいなら、断然Oculus GOを使うことをおすすめします。Oculus GOならば空中にモニター置いてブラウジングし放題ですし、落ちてくる心配もない。しかも大画面で見れるというオマケつき。GOろ寝初心者の方はまずはここから始めることをおすすめします。

Tiny island Relax(無料)

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ハンモックに横になり、青空の下でお昼寝。寝てればポジショントラッキングができないのも気にならない。

島をモチーフとしたいろんな視点でVRCGを楽しめるアプリです。いくつかシーンがありますが、GOろ寝的におすすめのシーンは「Hammock」と「Beach Chair」です。この2つのシーンではシートに寝転がって、ヤシの木の下で青空を眺める、という体験ができます。先程のブラウザは平面でしたが、Tiny island Relaxは視界全体に青空が広がっているため被ってすぐVR体験、というOculus GOの利点を存分に活かすことができます。

惜しむらくは、アプリとしての作り込みが少々甘いためすぐに飽きてしまうことと、寝ることをあまり想定していないためか日没などの物理的な時間経過がすぐ進んでしまうこと。波の音などを聞きながらゆったりとした時間を過ごす、というわけにはいきませんがポテンシャルを感じるアプリでした。

Netflix(無料、コンテンツは有料)

(Netflixはスクショ禁止なので画像はありません……ごめんなさい)

言わずとしれた映像配信アプリです。映画感覚で動画を見ることができるということで、発売当初から注目を集めています。 しかし、GOろ寝的におすすめなのは左上から選択できるvoidシアターモード。これで自由にディスプレイを動かすことができ、天井にディスプレイを固定することがすることができます。画面サイズも変更可能。

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左上の「VOID THEATER」を押すことで画面が重力から解き放たれる……!

天井一面のディスプレイで寝ながら見る映画は「最高」の一言。何度もいいますがわざわざスマホタブレットを持つ必要がなく、うとうとしてデバイスを落とす心配もありません。眠くなったらそのまま寝落ちもOK。

ただ残念なところは、voidシアターモードだとせっかくNetflixがアプリ側で用意したラグジュアリーな空間が消えてしまい、背景が真っ黒になってしまうところ。どうせならもう少し豪華な背景でGOろ寝がやりたかった……。

ちなみにブラウザの節では言っていませんでしたがブラウザでYoutubeを見るだけでも似たような体験ができます。是非やってみてください。

ホームスターVR(790円)

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寝転がりながら満点の星空の下でVRプラネタリウム体験。星座をオプションで表示できたり、音声ガイドつきの星座ツアーを楽しめたりクオリティが高い。

バーチャルプラネタリウムが体験できるアプリです。都会に住んでてなかなかきれいな星空が見れない方でも、被って三秒でMAXの星空を体験することができます。ただ寝っ転がって空を眺めるだけでもかなり充実した体験ができるのですが、このアプリ、かなり作りこんであって画像右のように星空だけでなく星座表示のON/OFFを切り替えることができたり、季節ごとに音声ガイド付きの星座ツアーを楽しむことができます。また、ずっと眺めていると時に流れ星が空を飛ぶこともあり、飽きさせません。有料アプリですが、全体的にクオリテイが高いため値段以上の価値は確実にあると思います。買いです!

まとめ

以上、Oculus GOを寝て使うのが良い理由と、寝て使うという視点からいくつかのアプリをレビューさせていただきました。 しかし、現状ほとんどのアプリは寝て使うというユースケースに合わせて作られておらず、今回紹介したアプリも完全に寝て使うことを想定して作られたとは必ずしもいえません。(前を向かないとメニューが選択できなかったり、そもそもブラウザですら一旦HMDがスリープになるとその都度位置を戻さないといけなかったりする) VRを寝ながら体験する、という視点に立てばいくつも面白いアイデアが湧いてくるかと思います。(添い寝とか、膝枕してもらうとか、絵本を読んでもらうとか) 特にVR添い寝については個人的に一大ムーブメントが起こせそうなくらい可能性を感じています。

www.nicovideo.jp (偉大なる先駆者様(@)。まだDK1が出てまもない2013年にアップされた動画だというのだから驚きである。製作者は確実に未来に生きている。)

(こちらはOculus GOで添い寝を実現してみた例(@)。Unity初めて10日足らずでこのアプリを作られたそうです。今後の改良に期待!)

現状は、まだまだ「VRHMDを寝て使う」という概念自体があまり普及しておらず、まだまだ模索が進んでいる状態です(そもそもVRを自宅でやるという概念自体Oculus GO発売まで一般的でなかったので仕方のない部分ではありますが)。 なのでこの記事を通してもっと皆さんがいろんなOculus GOアプリを寝て使ってみて、可能性を模索していただけたらと思います。 また、アプリ開発者の方々におきましては是非アプリ制作時に「寝ながら使う」というユースケースを想定していただけると幸いです。 (Bigscreenみたいな有名アプリでも天井にスクリーンを置くことができず、GOろ寝的に歯がゆい思いをしています)

「このアプリはGOろ寝できてよかったよ!」等の情報がありましたらブログのコメントや@で教えていただけると幸いです。

以上、よろしくお願いいたします。